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ルカの福音書5章1−11節 「慰めと励ましは正しい聖書理解から生まれる」
ある私の親しい伝道師の先生が、ご自分のホームページ上で、「礼拝メッセージに何を期待しているか」というアンケートを募りました。
@励ましを得る A慰めを得る B喜びを感じる C人生の決断に示唆を頂く D勇気を得る E聖書の正しい理解を学ぶ F罪が赦される G罪を指摘される
さて、皆さんは礼拝メッセージに何を期待していますか。
確かに私たちは励ましや慰めを受けたいです。傷つき疲れを覚える今を生きる私たちには、明日を生きるための励ましや慰めが必要でしょう。希望の見えない私たちの心に喜びを感じることも必要です。一寸先が闇で、足下が見えない私たちは決断に迷います。そのようなとき、迷っている自分の背中をポーンと押してくれる何かがあればと思うでしょう。
しかし、大切なことはそれらをどこに求めるかと言うことです。
ある人は人の言葉の中に励ましや慰めを受けたいと思います。また、先週アイフォーンという新しい携帯電話機が発売されましたが、ある人は何か買い物をすることや新しいものを手にすることによって、何か新しいことが始まるのではないかと期待し、そこに希望を見出そうと考えます。
私たちは神の言葉である聖書に、励ましと慰め、喜びと希望を見出していきたいものです。
それゆえに、私たちは礼拝メッセージに何を期待していくかと考えるとき、聖書の正しい理解を学ぶことが大切だと思います。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、そこには神からの慰めと励ましが生まれてきます。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、そこから神が与える喜びと希望を見出すことができます。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、私たちの罪が示されて罪の赦しといのちが与えられます。
ですから、私たちは今日も聖書の正しい理解と学びをしていきましょう。
それでは、今日の聖書箇所を開きましょう。ルカの福音書5章1−11をお開きください。
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
ゲネサレ湖というのはガリラヤ湖の別の呼び方です。そして、シモンと呼ばれるペテロが漁をしていたと言うことから、ここは先週もお話ししたカペナウムであることが分かります。
この町で、群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いていました。そこで、主イエスは舟を一そう借りて、湖から岸部に向かって話されました。どうしてそうされたのかというと、その方が岸にいる人々には良く聞こえたからです。
岸辺には小舟が二そうありました。そのうちの一つであるシモン(ペテロ)の持ち舟に主イエスは乗り込まれました。
私たちは主イエスがたまたまシモンの舟に乗り込まれたと思いがちですが、主イエスはわざわざシモン・ペテロの舟をお選びになったのでしょう。
ヨハネの福音書で「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と言われた主イエスです。
ペテロの舟に乗り込まれた主イエスはこの後、「わたしについて来なさい」とペテロを招かれたことからも、主イエスはあえてシモンの舟を選ばれたのだと思います。
今私たちはこうして教会に通うことができています。それはたまたまそのようになっているとお考えでしょうか。また、自分で選んでここに通っているとお思いでしょうか。
実は、私たちのその自主的な思いの中に不思議な神の導きがあってここに通うことができているのです。ですから、私たちはそうした神の導きと、私たちを選んでくださったその恵みを大切にしていきましょう。
さて、そのように主イエスに指名されたシモン・ペテロでしたが、この時の彼の状態というと、普通の人であれば断るような状況でありました。
夜通し働き続け、その成果が何一つ魚が獲れなかったという、とても落胆する状況でした。もう漁師を辞めたくなる思いだったかもしれません。本来ならば網を洗う気力も元気もないはずです。しかし、網を洗わなければ結局は明日の漁に出られなくなります。とは言っても、明日に魚が獲れるという保証はありません。私たちには明日のことは何一つ保証されていないからです。
人間の思いというのはとても身勝手で、今日が大漁であれば明日も大漁だと考え、逆に今日がダメだと明日もダメだと決めつけてしまいます。
今日失敗して叱られると、どうせ自分なんか失敗ばかりを繰り返す出来損ないと自分を悲観し、自分を役立たずだと決めつけたりします。どうせ自分なんかこの世にとって必要ないんだ!どうせ自分一人がいなくてもこの世の中はどうってことないんだ!と投げやりになってしまう人がいます。
明日のことが分からない私たちであるからこそ、私たちは神に信頼し、神に期待を寄せていかなければなりません。しかし、罪を犯し神から離れてしまった私たちは、明日への約束である神の言葉を失い、その神の言葉の代わりに、明日への希望につながるものを求めるようになってしまいました。それをよく表しているのが、主イエスが語られた愚かな金持ちの話です。ルカの福音書12章16−20節
12:16 「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
このたとえ話は、私たちの姿を非常に良く表しているかと思います。私たちは老後のために年金を積み立ててきました。しかし、今、私たちはその積み立てられた年金をどのように守ろうかと心配しています。
しかし、今の私たちに大切なのは、目に見える年金をどうするかと言うことではなく、目に見えない神の言葉を求めていくと言うことなのです。
主イエスは続けて次のように教えられました。ルカ12章21−32節
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
そのほかにももう二箇所お読みしましょう。箴言27章1節とヤコブ4章13−15節
箴言
27:1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。
ヤコブ
4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
話をシモン・ペテロのことに戻しますが、夜通し働き網を洗っている彼に、主イエスはもう一度舟を出すように願いました。最初は岸から少し離れたところでしたが、主イエスはさらに岸から離れた深みにまで行くようにと要求され、洗ったばかりの網をもう一度水の中におろすようにと言われたのです。
漁師でもない人間が漁師に向かってこのように言う場合、おそらくは誰もその言葉に従わないでしょう。
しかし、シモンの返事は、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」でした。
こうしてペテロは自分の経験や感情によって判断するのではなく、主イエスの言葉に明日をゆだねていくことにしました。するとどうでしょうか。網は破れそうになり、舟は沈みそうになるほどの大収穫になったのです。しかもそれは漁をするには適さない時間帯でした。
私たちは神の前にへりくるべきですね。私たちの経験、知識、常識と呼ばれるものは、神の前にいかに愚かで幼く小さいものであるのかを・・・。
ペテロはそのことを目の当たりにし、いかに自分が傲慢で思い上がった罪人であるかを示され、それまでは主イエスのことを“先生”と呼んでいた彼は“主よ”と告白しながら、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と叫んだのです。
私たちは教会の礼拝の中で、また教会で語られるメッセージの中で、励まされたい、慰められたい、恵まれたい、喜びと希望を得たいということを願い、また期待します。しかし、私たちはその前に、自分自身が神の言葉を聞き、それに聞き従っているかどうか点検しなければならないでしょう。
神の言葉には期待しないで、もし単なる励ましや慰めだけを得たいと思ってここに集まっているとしたら、私たちはペテロのように私たちの思い上がった心を神から示していただき、謙った心が与えられるように祈っていかなければならないでしょう。
さて、恐れおののいて、「主よ。私のような者から離れてください。」とシモン・ペテロをはじめとする漁師たちから言われた主イエスでしたが、その答えは彼らにとって意外なものでした。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」という言葉が主イエスから返ってきたのです。ほかの福音書では、「わたしについて来なさい」という言葉も言われたことが記されています。
「離れてください」というシモン・ペテロたちに対して主イエスが言われたのは、「ついて来なさい」という言葉でした。
今の時代は学歴、学力、経済力、技術力、コミュニケーション力など、人の能力というものが求められる時代です。しかし、聖書を正しく理解していく上で必要なことは、理解力があること、頭がよいことではなく、その言葉に従う心があるかどうかと言うことです。また、神の前にへりくだることができるかどうかと言うことです。
へりくだるとは、「自分はダメな人間です。」「何もできない人間です。」「とても神の働きなんかにはあたることはできません。」という自分自身を卑下することではなく、神の言葉に素直になることがへりくだりです。
ペテロは「私のような者から離れてください。」と言いましたが、彼らの主が招かれるとその言葉に従ったのです。5章11節をご覧ください。
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
ペテロたちはユダヤの人々から、「無学な普通の人」と呼ばれていました。彼らは漁師としては訓練され、漁師としての技術は持っていました。しかし、それ以外、社会が認めるような公的資格は何持ち合わせてはいませんでした。身分も地位もない人たちでした。
しかし、彼らは何も学んでいなかったのではありません。彼らは誰よりも権威があり、ユダヤ教の最高の教師よりも聖書を理解しておられる方から学びました。しかも、3年間という歳月を寝食を共にしながら学ばれました。ただ彼らになかったのは、どこどこ大学卒業とか、○○博士という肩書きだけだったのです。
むしろ彼らには肩書きや身分や地位を誇る人が持ってはいないものを持っていました。それは主イエスという名前です。彼らにあったのは自分がどのような人物かと言うことをアピールすることではなく、主イエスとはどういう方なのかと言うことを人々に宣べ伝えたいという心でした。それが神の御心だったからです。
そうした神の御心を理解し、本当の慰め、本当の励まし、本当の希望、本当の喜びを得ていくために必要なことはなんでしょうか?
それは、明日のことを神の御言葉にゆだねていこうとする従う心と、自分の知識よりも神の言葉は偉大であるというへりくだった心です。
さて、主イエスは今私たちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と招いておられます。これは牧師になろうとする人への招きではありません。宣教師になろうとしている人への招きではありません。聖書はすべての人に宛てられた神のメッセージです。ですから、この招きはここにおられる全ての方々への神の招きです。
この「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という主イエスの招きに応えて行かれる方はいませんか。
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