愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
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聖書本文は新改訳聖書第三版(新改訳聖書刊行会)を使用しています。

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2008年7月20日 録音データはサーバー移転中のためしばらくお待ちください。
ルカの福音書5章12−16節 「喜んで私たちの罪を赦してくださる主イエス」
 
5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
5:13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
5:14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
 
まず最初に皆さまにご説明をしておかなければならない言葉があります。それは「ツァラアト」という病名です。
以前まで私たちが使っています新改訳聖書第2版では、ヘブル語の「ツァラアト」、ギリシャ語では「レプラ」という言葉を「らい病」と訳していました。
「らい病」とは正式な医学用語ではハンセン病のことですが、新改訳聖書では「ツァラアト」と「らい病」または「ハンセン病」とは異なる病気であると言うことから、検討を重ねた結果、「ツァラアト」と訳すことになりました。
皆さんの聖書の後の方に、2版発行、3版発行と書かれています。2版をお持ちの方は「らい病」となっていますが、3版をお持ちの方は「ツァラアト」になっています。
また、英語の聖書には「leprosy」となっています。「leprosy」とはハンセン病という意味です。そのほかの言語も、「ハンセン病」または「らい病」を表す言葉になっています。
新改訳と同じように多くの教会で使われている新共同訳でも、この用語の問題をどうするべきか検討されていますが、とりあえず「重い皮膚病」「カビ」という言葉で訳されるようになっています。しかし、「皮膚病」では、今度はアトピーなど人たちが誤解を受けてしまうので問題が残されています。
 
聖書を翻訳すると言うことはとても難しいことです。特にこの「ツァラアト」とか「レプラ」という言葉をどのように訳すべきかは大きな課題です。なぜなら、各国の言葉でそれを「らい病」と訳したことにより「らい病患者」つまり「ハンセン病患者」の方々がとても大きな差別を受けてきたからです。
ですから、「ツァラアト」と元の言葉で訳したことはある意味で画期的なことだと思います。
 
それではツァラアトとはどのような病気なのでしょうか。岡山にあるハンセン病患者のための国立療養所長島愛生園にある長島曙教会牧師の大嶋得雄先生はホームページ上で次のようにご説明くださっています。
 
旧約聖書のレビ記13章・14章の「ツァラアト」の症状は「らい病」とは異なる。
「ツァラアト」は人間の皮膚、衣服、動物の皮、家の壁にも生じ、表面が損なわれた状態を指す。
「ツァラアト」は主に祭儀的なものであって、神の前にけがれたものだとされている。
人間は隔離され、衣服、動物の皮は焼かれ、壁は外に捨てられる。
人間の皮膚に出来る「ツァラアト」は、レビ記13章には、「祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である」と五回も繰り返されている。
長年、ハンセン病の専門医であられるクリスチャンの犀川一夫氏は、「らい」患者の患部の毛は白くならない。「らい」の最大の特徴は末梢神経障害だから、「ツァラアト」が「らい」であるならば、麻痺のことが書かれているはずであると言われている。犀川氏と「らい(ハンセン病)」に取り組まれたクリスチャン医師のS・G・ブラウン氏(元、国際らい学会事務局長)も同意見である。お二人とも、聖書に訳されている「らい」と医学上の「らい(ハンセン病)」は異なると言っている。(犀川一夫著・「聖書のらい」、S・G・ブラウン著・「聖書の中のらい」を参照)。
 
そのようなわけで、どうか皆さん、聖書の中の「らい病」または「ツァラアト」が、実際の「らい病」「ハンセン病」とは異なるものであるということを理解していただきたいと思います。
 
さて、本題に入りたいと思います。まず5章12節をご覧ください。
5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
 
ここでツァラアトの人が主イエスに語りかけた、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」という言葉の持つ意味ですが、まず旧約聖書レビ記13章1−6節をご覧ください。
13:1 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
13:2 「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚にツァラアトの患部が現れたときは、彼を、祭司アロンか、祭司であるその子らのひとりのところに連れて来る。
13:3 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはツァラアトの患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
13:4 もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患部を七日間隔離する。
13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。
 
「汚れ」という言葉ですが、いろいろな意味で使われています。病気を表す意味で使われていたり、実際に汚物等で汚れた場合に使われていたり、また、罪のある状態つまり人の心の状態を示す場合にも使われます。
しかし、間違ってはいけないのは、身体的な汚れと、罪のある状態とでは異なると言うことです。しばしば人はそれを混同します。ゆえに、ツァラアトになった人を罪人呼ばわりしました。
ツァラアトは身体に起きた病気としての汚れでした。それが癒されることを、ここでは「きよめられた」と表現しています。「きよめられた」人は祭司の所に行き、祭司はその人を「きよい」と宣言します。
祭司がきよめたのではありません。祭司は単にきよいと認め宣言するだけです。癒されるのは神です。
 
さて、主イエスに会いに来たツァラアトの人は、祭司の元に来たのではありません。なぜなら、彼はまだ癒されていなかったからです。祭司の所へ行く前に、きよくされなければなりません。そのために主イエスの元に来たのです。それは何を意味しているのでしょうか。そうです。彼は主イエスを祭司以上のお方として、つまりツァラアトの人を癒し、きよめることのできる神として会いに来たのです。
彼は、「お心一つで・・・」と言いました。それは、「あなたのご意思で」という主イエスを、人のすべてを支配しておられるお方として認め、すべてをゆだねていることの表れでした。
 
彼は全身がツァラアトに冒された人でした。それは病でした。しかし、彼は同時に罪人として扱われていました。全身がツァラアトに冒された彼は、すべてが罪に被われたのと同じでした。
 
私たちは何に傷つくのでしょうか? 私たちは人の言葉に傷つきます。人に自分自身のことを悪く言われたとき心は傷つきます。私たちはそうした他人の言葉を否定したくなります。しかし、同時に自分自身にも非があること、罪があることに気が付き、そしてさらに傷つきます。
私自身、決して完璧な人間ではなく、欠けの多い者です。ゆえに他の人から、あなたのこう言うところが嫌いだとか、あなたのこう言うところに躓いたと言われることがしばしばあります。そう言われたとき、正直、とても傷つきます。悲しくなり、辛くなります。しかし、その後でこう思うようにしています。
「神はこの人を通して私の罪を示してくださったのだ」と・・・。
 
きっとこのツァラアトの人もそうだったでしょう。病気は身体のことでした。しかし、彼は自分自身の罪深さを否定することもできなかったでしょう。
人々は彼の外面を見て罪人と呼びました。しかし、彼自身は自分の心の中の罪に気が付き、そして自分自身が心の全てが汚れた罪人であると悲しんでいたでしょう。
 
そんな彼は、自分の身体だけでなく心もきよめてくださるお方は、主イエスだけであると信じ、主イエスのもとへ行き、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」という言葉をもって信仰告白をしたのです。
主イエスの答えは迅速でした。13節をご覧ください。
5:13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
 
この短いことば、「わたしの心だ。きよくなれ」、には、特別に注意を払うべき価値があります。
それは主イエスのご意思でした。主イエスご自身が望まれたことでした。
 
私たちはしばしば神を誤解します。主イエスを誤解します。厳しいお方であると・・・。
たしかに、罪を悔い改めず、神に背き続ける思い上がった人々に対しては、神は厳しいお方です。
しかし、神は、へりくだり、憐れみを求めてご自分に近づくものには、溢れるほどの恵みを与えてくださるお方です。
主イエスは、私たちに恵みを与えようと無限の意欲を持ったお方です。喜んで同情をお示しになるお方です。
 
皆さんはどれくらい寛容な心をお持ちですか?無限に赦すことができますか?
私は何度か人に裏切られたことがあります。立ち直らせようとその人の言葉を信じて助けたのに裏切られ、それでもまた同じ人が助けを求めてきたときには、今度こそは立ち直ってほしいと願い再び助け、そして裏切られました。それを繰り返していき、ついに私はあきらめてしまいました。
しかし、私たちは何度主イエスを裏切ったことでしょうか。ペテロは主イエスのことを三度も知らないと言いましたが、皆さんは何度自分がクリスチャンであることを隠しましたか。三回ですか?それ以上ですか?
あなたは何度同じ罪のことで悔い改めましたか。今日悔い改め、どうぞ主よ私をきよめてくださいと祈りながら、次の日にはまた同じ罪を繰り返してはいませんか?
主イエスは7を70倍するまで赦しなさいと教えられるお方です。490回まで赦すと言うことではありません。完全に赦しなさいと言うことです。主イエスはそのような無限の愛を持ったお方です。
 
第二ペテロ3章9節をご覧ください。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
 
しかし、主は次のように嘆かれました。ヨハネの福音書5章40節
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
 
また、次の箇所も開きましょう。ヘブル10章39節
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
 
皆さん、信じて主イエスに近づいたこの全身ツァラアトの人は、全身に神の恵みと憐れみを受け、からだも心もきよくされていったのです。私たちも常に神に近づき、主イエスに近づき、日々癒されたいものです。
 
こうして身体の病が癒され、心の罪が赦された彼に、主イエスは祭司のところに行くように命じます。
ルカの福音書5章14節をご覧ください。
5:14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
 
主イエスは当時のユダヤ人の宗教家や指導者とは異なっていました。それによって彼らは主イエスが律法に背いていると批判しました。しかし、律法に背いているのは主イエスではなくパリサイ人、サドカイ人、律法主義者などと呼ばれる彼らの方だったのです。主イエスは旧約聖書を守られました。それどころか、主イエスは旧約聖書の約束に従って遣わされたお方なのです。
私たちは今、旧約聖書が教えるような儀式等を行ってはいません。しかし、ないがしろにしてはいけません。私たちはその旧約聖書の中に記載された儀式や教えを正しく学ぶことによって、新約聖書を正しく理解でき、そして正しい信仰へと導かれるからです。
 
さて、主イエスが祭司のところに行くように命じられたのは、それだけではありません。祭司は癒されたことを宣言しなければなりません。つまり、祭司は癒された彼を、神によって癒されたと認めなければならなかったのです。
癒されたのは誰ですか。そうです。主イエスです。主イエスは人の病を癒し、きよめ、罪を赦す権威を持った神なのです。
 
皆さんは主イエスをどなただと信じて近づきますか?
もし、あなたがこのツァラアトの人のように、主イエスこそ自分をきよめてくださるお方だと信じて近づくのであれば、主イエスはあなたのすべての罪を赦し、あなたをきよめてくださいます。主イエスとは何というお方でありましょう。
 
そのような主イエスは、常に父なる神との交わりを得るために祈られました。
16節を見ましょう。
5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
 
主イエスは聖く汚れのないお方でありました。また、主イエスには次々と押し寄せる群衆がいました。しかし、その主イエスであっても、規則正しく父なる神と個人的に交わることをやめようとはなさいませんでした。
主イエスでさえそうされたのです。私たちも同じように、たとえどんなに仕事に追われようとも、祈りを欠いてはいけません。
皆さんはこうして日曜日に教会に集まり、賛美をしたり、献金をしたり、説教を聞いたりしています。しかしどうでしょうか。私たちは日々の生活の中で、一人静まり、神に祈りを捧げるという習慣を身に付いているでしょうか。
どうか皆さん、神に近づき、十分に神とふたりきりになるひとときを持っていただきたいと思います。そうするとき、あなたはますます神の恵みを理解し、主イエスの心を理解することができるものとされ、主イエスの心をあなたの心していくことができるのです。

2008年7月13日
ルカの福音書5章1−11節  「慰めと励ましは正しい聖書理解から生まれる」
 
ある私の親しい伝道師の先生が、ご自分のホームページ上で、「礼拝メッセージに何を期待しているか」というアンケートを募りました。
@励ましを得る A慰めを得る B喜びを感じる C人生の決断に示唆を頂く D勇気を得る E聖書の正しい理解を学ぶ F罪が赦される G罪を指摘される
さて、皆さんは礼拝メッセージに何を期待していますか。
 
確かに私たちは励ましや慰めを受けたいです。傷つき疲れを覚える今を生きる私たちには、明日を生きるための励ましや慰めが必要でしょう。希望の見えない私たちの心に喜びを感じることも必要です。一寸先が闇で、足下が見えない私たちは決断に迷います。そのようなとき、迷っている自分の背中をポーンと押してくれる何かがあればと思うでしょう。
 
しかし、大切なことはそれらをどこに求めるかと言うことです。
ある人は人の言葉の中に励ましや慰めを受けたいと思います。また、先週アイフォーンという新しい携帯電話機が発売されましたが、ある人は何か買い物をすることや新しいものを手にすることによって、何か新しいことが始まるのではないかと期待し、そこに希望を見出そうと考えます。
 
私たちは神の言葉である聖書に、励ましと慰め、喜びと希望を見出していきたいものです。
それゆえに、私たちは礼拝メッセージに何を期待していくかと考えるとき、聖書の正しい理解を学ぶことが大切だと思います。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、そこには神からの慰めと励ましが生まれてきます。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、そこから神が与える喜びと希望を見出すことができます。
私たちが聖書の正しい理解をしていくとき、私たちの罪が示されて罪の赦しといのちが与えられます。
 
ですから、私たちは今日も聖書の正しい理解と学びをしていきましょう。
それでは、今日の聖書箇所を開きましょう。ルカの福音書5章1−11をお開きください。
 
5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
 
ゲネサレ湖というのはガリラヤ湖の別の呼び方です。そして、シモンと呼ばれるペテロが漁をしていたと言うことから、ここは先週もお話ししたカペナウムであることが分かります。
この町で、群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いていました。そこで、主イエスは舟を一そう借りて、湖から岸部に向かって話されました。どうしてそうされたのかというと、その方が岸にいる人々には良く聞こえたからです。
 
岸辺には小舟が二そうありました。そのうちの一つであるシモン(ペテロ)の持ち舟に主イエスは乗り込まれました。
私たちは主イエスがたまたまシモンの舟に乗り込まれたと思いがちですが、主イエスはわざわざシモン・ペテロの舟をお選びになったのでしょう。
ヨハネの福音書で「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と言われた主イエスです。
ペテロの舟に乗り込まれた主イエスはこの後、「わたしについて来なさい」とペテロを招かれたことからも、主イエスはあえてシモンの舟を選ばれたのだと思います。
 
今私たちはこうして教会に通うことができています。それはたまたまそのようになっているとお考えでしょうか。また、自分で選んでここに通っているとお思いでしょうか。
実は、私たちのその自主的な思いの中に不思議な神の導きがあってここに通うことができているのです。ですから、私たちはそうした神の導きと、私たちを選んでくださったその恵みを大切にしていきましょう。
 
さて、そのように主イエスに指名されたシモン・ペテロでしたが、この時の彼の状態というと、普通の人であれば断るような状況でありました。
夜通し働き続け、その成果が何一つ魚が獲れなかったという、とても落胆する状況でした。もう漁師を辞めたくなる思いだったかもしれません。本来ならば網を洗う気力も元気もないはずです。しかし、網を洗わなければ結局は明日の漁に出られなくなります。とは言っても、明日に魚が獲れるという保証はありません。私たちには明日のことは何一つ保証されていないからです。
 
人間の思いというのはとても身勝手で、今日が大漁であれば明日も大漁だと考え、逆に今日がダメだと明日もダメだと決めつけてしまいます。
今日失敗して叱られると、どうせ自分なんか失敗ばかりを繰り返す出来損ないと自分を悲観し、自分を役立たずだと決めつけたりします。どうせ自分なんかこの世にとって必要ないんだ!どうせ自分一人がいなくてもこの世の中はどうってことないんだ!と投げやりになってしまう人がいます。
 
明日のことが分からない私たちであるからこそ、私たちは神に信頼し、神に期待を寄せていかなければなりません。しかし、罪を犯し神から離れてしまった私たちは、明日への約束である神の言葉を失い、その神の言葉の代わりに、明日への希望につながるものを求めるようになってしまいました。それをよく表しているのが、主イエスが語られた愚かな金持ちの話です。ルカの福音書12章16−20節
 
12:16 「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
 
このたとえ話は、私たちの姿を非常に良く表しているかと思います。私たちは老後のために年金を積み立ててきました。しかし、今、私たちはその積み立てられた年金をどのように守ろうかと心配しています。
しかし、今の私たちに大切なのは、目に見える年金をどうするかと言うことではなく、目に見えない神の言葉を求めていくと言うことなのです。
 
主イエスは続けて次のように教えられました。ルカ12章21−32節
 
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
 
そのほかにももう二箇所お読みしましょう。箴言27章1節とヤコブ4章13−15節
 
箴言
27:1 あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。
 
ヤコブ
4:13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
 
話をシモン・ペテロのことに戻しますが、夜通し働き網を洗っている彼に、主イエスはもう一度舟を出すように願いました。最初は岸から少し離れたところでしたが、主イエスはさらに岸から離れた深みにまで行くようにと要求され、洗ったばかりの網をもう一度水の中におろすようにと言われたのです。
漁師でもない人間が漁師に向かってこのように言う場合、おそらくは誰もその言葉に従わないでしょう。
しかし、シモンの返事は、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」でした。
こうしてペテロは自分の経験や感情によって判断するのではなく、主イエスの言葉に明日をゆだねていくことにしました。するとどうでしょうか。網は破れそうになり、舟は沈みそうになるほどの大収穫になったのです。しかもそれは漁をするには適さない時間帯でした。
 
私たちは神の前にへりくるべきですね。私たちの経験、知識、常識と呼ばれるものは、神の前にいかに愚かで幼く小さいものであるのかを・・・。
ペテロはそのことを目の当たりにし、いかに自分が傲慢で思い上がった罪人であるかを示され、それまでは主イエスのことを“先生”と呼んでいた彼は“主よ”と告白しながら、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と叫んだのです。
 
私たちは教会の礼拝の中で、また教会で語られるメッセージの中で、励まされたい、慰められたい、恵まれたい、喜びと希望を得たいということを願い、また期待します。しかし、私たちはその前に、自分自身が神の言葉を聞き、それに聞き従っているかどうか点検しなければならないでしょう。
神の言葉には期待しないで、もし単なる励ましや慰めだけを得たいと思ってここに集まっているとしたら、私たちはペテロのように私たちの思い上がった心を神から示していただき、謙った心が与えられるように祈っていかなければならないでしょう。
 
さて、恐れおののいて、「主よ。私のような者から離れてください。」とシモン・ペテロをはじめとする漁師たちから言われた主イエスでしたが、その答えは彼らにとって意外なものでした。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」という言葉が主イエスから返ってきたのです。ほかの福音書では、「わたしについて来なさい」という言葉も言われたことが記されています。
「離れてください」というシモン・ペテロたちに対して主イエスが言われたのは、「ついて来なさい」という言葉でした。
 
今の時代は学歴、学力、経済力、技術力、コミュニケーション力など、人の能力というものが求められる時代です。しかし、聖書を正しく理解していく上で必要なことは、理解力があること、頭がよいことではなく、その言葉に従う心があるかどうかと言うことです。また、神の前にへりくだることができるかどうかと言うことです。
 
へりくだるとは、「自分はダメな人間です。」「何もできない人間です。」「とても神の働きなんかにはあたることはできません。」という自分自身を卑下することではなく、神の言葉に素直になることがへりくだりです。
ペテロは「私のような者から離れてください。」と言いましたが、彼らの主が招かれるとその言葉に従ったのです。5章11節をご覧ください。
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
 
ペテロたちはユダヤの人々から、「無学な普通の人」と呼ばれていました。彼らは漁師としては訓練され、漁師としての技術は持っていました。しかし、それ以外、社会が認めるような公的資格は何持ち合わせてはいませんでした。身分も地位もない人たちでした。
しかし、彼らは何も学んでいなかったのではありません。彼らは誰よりも権威があり、ユダヤ教の最高の教師よりも聖書を理解しておられる方から学びました。しかも、3年間という歳月を寝食を共にしながら学ばれました。ただ彼らになかったのは、どこどこ大学卒業とか、○○博士という肩書きだけだったのです。
むしろ彼らには肩書きや身分や地位を誇る人が持ってはいないものを持っていました。それは主イエスという名前です。彼らにあったのは自分がどのような人物かと言うことをアピールすることではなく、主イエスとはどういう方なのかと言うことを人々に宣べ伝えたいという心でした。それが神の御心だったからです。
そうした神の御心を理解し、本当の慰め、本当の励まし、本当の希望、本当の喜びを得ていくために必要なことはなんでしょうか?
それは、明日のことを神の御言葉にゆだねていこうとする従う心と、自分の知識よりも神の言葉は偉大であるというへりくだった心です。
 
さて、主イエスは今私たちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と招いておられます。これは牧師になろうとする人への招きではありません。宣教師になろうとしている人への招きではありません。聖書はすべての人に宛てられた神のメッセージです。ですから、この招きはここにおられる全ての方々への神の招きです。
この「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という主イエスの招きに応えて行かれる方はいませんか。

2008年7月4日
ルカの福音書4章31−44  「権威を持たれた主イエス・キリスト」

4:31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。
4:32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
4:33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。
4:36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」
4:37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。
4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
4:39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
4:42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
4:44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。
 
今日は、「権威を持たれた主イエス・キリスト」というテーマでお話ししていきます。
ルカは福音書の中で、主イエス・キリストが権威を持ったお方であることを紹介しています。
まず、権威とはどのようなことなのかをお話ししたいと思いますが、そのことを理解するために同じルカの福音書7章1〜10節をご覧ください。
 
7:1 イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。
7:2 ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」
7:6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
7:7 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
7:8 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
7:9 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」
7:10 使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
 
百人隊長とは、ローマの軍隊の将校です。この百人隊長の言葉に注目してください。
私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
 
権威というものは、その言葉に従わなければならないことです。
百人隊長とは百人の部下を従わせている将校で、今で言えば少尉か中尉にあたると思います。しかし、その権限は今の少尉や中尉よりも大きかったと思います。
 
ローマの軍隊はとても規律が正しく、上下関係がはっきりしていて、百人隊長に従わない者は百人隊長が処刑することもできました。たとえば、任務中に居眠りをした場合でも、百人隊長はその兵士を処刑することができました。逆に、百人隊長も彼の上の者には絶対服従でした。
そうした規律ある軍隊の中にいるその百人隊長は、自分の部下は「行けと言えば行きます。来いと言えば来ます。それと同じように、自分も自分の上の権威には従います。」と言ったのです。
 
これが権威です。ですから、最高の権威を持った者は、人を活かすことも死なせることもできたのです。
 
もう少し権威について説明しますと、たとえばある人が駐車禁止の所に車を停めていたとします。すると近所の人が来て、ここは駐車禁止だから移動するようにと言います。しかし、そのドライバーは言うことを聞きません。そこへお巡りさんがやってきました。同じようにお巡りさんも注意しますがそのドライバーは言うことを聞きません。するとお巡りさんは違反キップを切って、レッカー車を呼んでその車を持って行ってしまいました。
どうして、お巡りさんにはそれができたのでしょうか。それはお巡りさんにはそれができる権威や権限が与えられているからです。
 
会社に勤めておられる方はよくそのことが分かりますね。上司の命令には従わなければなりませんね。自分は掛川に住みたくても会社の命令で北海道や九州へ行かなければならなくなったら、それに従わなければなりません。それが嫌ならば会社を辞めるか、今以上の昇進をあきらめなければなりません。それが権威です。
 
さて、今日の説教箇所であるルカの福音書4章31節に戻りますが、主イエスは、権威ある者としてお話しをしたとあります。主イエスにはどれ程の権威があったのでしょう。
まず、ある悪霊は主イエスのことを「神の聖者」と呼びましたが、主イエスから、「黙れ。その人から出て行け。」と命じられてその人から出て行きました。
また、もう一つの悪霊は「あなたこそ神の子です。」と叫びながら出て行きました。
 
なぜ悪霊が出て行ったのでしょうか。それは主イエスに権威があり、彼らはその言葉に従わなければいけなかったからです。
別の箇所では、主イエスの弟子たちが悪霊を追い出していますが、それは彼らに権威があったからではなく、彼らが「主イエスの名によって」と言って悪霊に命じていたからでした。
 
主イエスは悪霊を追い出しただけではありません。病気まで主イエスに従ったのです。
それは、もはや百人隊長、千人隊長、そしてローマ皇帝の権威を上回った権威です。
ローマ皇帝は逆らった者を処刑することができました。また、もし命乞いをしてローマ皇帝が赦せば、その者の命は救われました。しかし、どんなに優れたローマ皇帝であっても、悪霊を追い出し、病気を癒し、そして死んだ者を生き返らせることはできません。どうしてでしょうか。それはローマ皇帝にはその権威が与えられていないからです。
しかし、主イエスにはその権威がありました。
 
悪霊たちはその権威を知っていました。ある悪霊は「神の聖者」と言いました。ある悪霊は「あなたこそ神の子です」と言いました。そして、主イエスの言葉に従いました。
 
さて、あなたは主イエスをどういうお方だと言いますか?
歴史的に有名な人物ですか?
2000年前にいた宗教家ですか?
人類に模範となる人ですか?
良い教えや言葉をたくさん残した人ですか?
 
聖書は主イエスをどういうお方だと紹介しているでしょうか?
聖書は私たちに主イエスを歴史的に有名な人であるとか、宗教家であるとか教師であるとは教えていません。聖書は私たちに主イエスを、権威を持ったお方と紹介しています。しかも、その権威とは悪霊も百人隊長も従う権威であり、人の罪を赦すことができ、人に死も命も与えることのできる権威を持ったお方として紹介しています。
 
その方をあなたはどういうお方だと言いますか?
「神の聖者」と言いますか?
「あなたこそ神の子です」と言いますか?
 
残念なことに、悪霊でさえこのように告白し、主イエスの言葉に従っているのに、多くの人々は主イエスをこのように告白せず、またその権威に従おうとしません。
このカペナウムの町の人々でも同じでした。主イエスは、カペナウムに住み、そこを拠点として活動されました。そして、このカペナウムでは実に多くの奇跡が行われました。しかし、このカペナウムの人々の多くは、罪を悔い改めて神の救い主を受け入れることをしませんでした。
 
あなたはいかがですか?神の前に罪を悔い改めて、主イエスを救い主つまりキリストとして告白しておられるでしょうか。
また、「あなたこそ神が遣わされた神の御子であり、私たちが従わなければいけないお方です」と告白し従っておられるでしょうか。
 
ここからは少しクリスチャン向けのメッセージになりますが、ヤコブの手紙に次のように書かれています。2章19節をご覧ください。
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
 
今日の箇所であるルカ4章を見てお分かりいただけると思いますが、悪霊でさえ、主イエスがどのようなお方なのか、どのような立場のお方なのかを知っていました。また悪霊でさえ、主イエスの言葉に従いました。
では、悪霊と私たちクリスチャンとはどこが違うのでしょう。どのような違いを持つべきなのでしょうか。
 
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
 
悪霊と私たちクリスチャンの違いは、第一に悪霊には行いがないと言うことです。第二に悪霊には愛がないと言うことです。
 
主イエスの弟子の代表者でもあるペテロは欠けの多い人物でした。しかし、彼ははっきりと告白しています。主イエスはペテロに、「あなたは私を誰だと言いますか」と尋ねられたとき、はっきりと「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。
彼は時に大きな失敗をしました。また、時に極端なことをしました。主イエスを捕らえようとした兵士に襲いかかったり、岸辺に主イエスが立っておられるのを見ると水の中に飛び込んで泳いで岸に向かったりしました。しかし、彼は主イエスのことを心から愛していました。彼の行動はその主イエスを愛する愛からのものでした。ですから、主イエスが「あなたは私を愛しますか」と質問されたとき、「わたしはあなたを愛しています。あなたはそのことをご存知です」と答えたのです。
 
さて、あなたはこのペテロのように主イエスを慕っておられますか?愛しておられますか?
また、あの百人隊長のように、主イエスの権威を認め、心から従っておられますか?
主イエスは、この百人隊長の行いに対して、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。と言われました。
 
主イエスは、愛すべきお方です。なぜならあなたのために十字架で死なれたからです。
主イエスは、私たちが従うべき権威を持ったお方です。なぜなら主イエスは死に打ち勝ち、三日目によみがえられ、死も命も従えることのできるお方だからです。
 
主イエスの愛は、決して見返りを求める愛ではなく、私たちの罪のために自ら十字架で死なれるというアガペーつまり神の愛でした。しかし、見返りを求めない愛であっても、それを受けた私たちはそれに反応していく責任があります。愛しているのか愛していないのか曖昧なままではなく、その主イエスの愛にしっかりと応えていかなければなりません。
 
あなたは、この主イエスをどのように告白されますか?
あなたは、この主イエスにどのように仕えていかれますか?
あなたはペテロと同じように、「わたしはあなたを愛します」と答えられますか?