愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
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聖書本文は新改訳聖書第三版(新改訳聖書刊行会)を使用しています。

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2008年6月29日
ルカの福音書4章14−30
 
4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。
4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。
4:23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
4:24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
4:26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
4:27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
4:30 しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。
 
私たちは日曜日毎に教会に集まっていますが、教会は新約聖書の言語のギリシャ語ではエクレシアと言います。これは「神によって招集された集まり」という意味を持っていますが、それはクリスチャンたちの集まりを表しています。しかし、この「教会」という言葉は、建物を表す言葉となっていますが「教会堂」と呼ぶ方が正確です。
 
さて、クリスチャンたちが教会堂に集まって礼拝を守るという形式はどこから来たのでしょうか。それは新約聖書に出てくるユダヤ教の「会堂」から来ています。このユダヤ教の会堂のことを「シナゴーグ」と呼びます。
シナゴーグはどのような建物で、どのような礼拝が捧げられていたのかと言うことですが、建物は今のキリスト教会とほぼ同じだとイメージしていただければ良いかと思います。教会の中には縦長ではなく講壇から末広がりにベンチが置かれる横長のところもありますが、シナゴーグの多くは縦長かと思います。
そして、シナゴーグで行われている礼拝の内容はと言うと、私たちの礼拝に近いものがあります。むしろ、キリスト教会はシナゴーグで行われていたユダヤ教の礼拝形式の影響を受けていると言えるでしょう。
シナゴーグでの礼拝は、神殿での礼拝とは異なり、いけにえを献げるという行為はなく、聖書朗読と祈りと聖書の解き明かし、つまり説教が中心です。また、シナゴーグでは子供への聖書教育が施されています。ですから、日曜学校で子供に聖書教育を行い、礼拝において聖書朗読と説教が語られる今のプロテスタント教会は、まさしくシナゴーグでの礼拝から来ていると言えるでしょう。
 
さて、そのように会堂つまりシナゴーグでの礼拝は、祭司ではなく一般の人々が大人から子供までもが聖書を学び理解する場所でした。それは、信仰が祭司など一部の宗教関係者しか理解できないものではなく、一般の人々も理解でき、そして一人一人の信仰によって神に近づくことができることの表れでもありました。
そうした会堂で主イエス・キリストは語られ、神の良き訪れを宣べ伝えて行かれました。
ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになった主イエス・キリストは、故郷であるガリラヤへ帰ってこられました。ガリラヤには、カナ、カペナウム、コラジン、ベツサイダ、ナザレと呼ばれる町々があり、それらの町には会堂がありました。そして、ナザレ以外の町々では主イエス・キリストの語られるメッセージを通して、人々は神をあがめ、ほめたたえたのでした。
そして同じようにナザレでも主イエス・キリストは語られました。
会堂での礼拝は、神殿での礼拝よりも自由な形で行われていたようです。聖書朗読の時に主イエスは立ち上がり、担当者から渡された箇所を朗読されました。手渡されたのはイザヤ書でした。
主イエスが読まれた箇所を私たちも読みましょう。イザヤ書61章1−3節
 
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。
 
このイザヤ書61章は、イスラエルに繁栄がもたらされる希望のメッセージです。そして、同時にこのメッセージはイスラエル人たちが待ちわびていた救世主=メシヤのメッセージでもあります。
 
ルカの福音書4章に戻りましょう。
この朗読の後、主イエスは「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言ってメッセージを語ります。人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚きました。
ナザレの人々は、「私は貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされました。」と語る主イエスのメッセージに神の希望を見、また、主イエスご自身に救い主としての光を感じました。
ところが、彼らは、「この人は、ヨセフの子ではないか」と言って、そこで語る人物が、自分たちの町で育ち、自分たちがよく知っている者であると分かると、それまでの恵みを忘れ、関心が別の所に移っていきました。
 
主イエスは別のところで、種まきのたとえ話をされました。道ばたに落ちた種はカラスがついばんでいき、岩地に落ちた種は根付かずに枯れてしまい、いばらの中に落ちた種は太陽の光を遮られてしまいました。
ナザレの会堂で主イエスのメッセージを聴いた人たちは、いばらの中に落ちた種でした。
いばらの中に落ちた種とは、この世への心づかいによって、聞いた御言葉が活かされない人のことです。
彼らは神を礼拝するために会堂に集まってきました。そして彼らは神からの恵まれたメッセージを聞き祝福に預かっていました。ですから、そこで聖書朗読をし、メッセージを語る主イエスがどこで生まれ誰の息子であるかと言うことは関係のないことでした。しかし、彼らはその一点で神からの恵みを逃してしまいました。
 
このことは私たちにも言えることです。皆さんはどのような心構えで礼拝に出席されているでしょうか。私たちの礼拝では最初に聖書朗読がされ、次に賛美、祈り、交読、献金、説教が行われています。それら一つ一つを、かみしめ、心を神に向けて行い、そして恵みを受けているでしょうか。そうではなく、あれこれと礼拝とは関係のないことに気持ちが行ってしまってはいないでしょうか。また、礼拝の後の予定に心が奪われてはいないでしょうか。そして、礼拝の中で行われる事柄をただ受け流しているだけになっていないでしょうか。それは神の恵みを逃していることです。気をつけていきましょう。
 
さて、話を戻しますが、彼らはそこで語る人物が自分たちの町の者であることを知り、また、彼が他の町で奇跡をもたらしたと聞いて、彼らの関心は主イエスのメッセージではなく、自分たちの関心事へと向けられていきました、主イエスはそうした彼らの心を見抜いてこう言われました。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
彼らは、神が救世主=メシアを遣わしてくださり、それが主イエスであると言うことにことを耳にしながら、その関心はカペナウムという別の町で起こった奇跡に向けられていきました。そして、よその町で奇跡が行われたように、この故郷の町でも行ってほしいと思っていたのです。
私たちの目は、私たちの心の目はどこに向けられているでしょうか。常に主イエス・キリストに向けられているでしょうか。それともこの世のことに向けられているでしょうか。
 
日本という国は福音宣教の難しい国だと言われています。教会が発展しない国だと言われています。そして、その責任を日本の教会や日本のクリスチャンのせいであると言われることがしばしばです。
「牧師たちは何をしている。日本のビジネスマンたちはあんなにがんばっているのに、どうしてキリスト教会だけは成功しないのか」などと言われたり、「日本のクリスチャンたちは熱心さが足りない。もっと伝道しなければいけない」などと他の国と比較して言われたりします。
しかし、私は日本の牧師たち、クリスチャンたちは、この難しい国でよく困難に耐え、がんばっていると思います。
日本の福音宣教の難しさの一つは、日本人の多くが信仰とは全く別のところに関心があるからだと思います。戦後の日本は経済発展していきました。そして、その経済発展の中で、「人はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の最も大きな関心を見逃されてきました。その代わり、人々は死というものを直視しないで、現実の事ばかりに目を留めてきました。どうしたら豊かになれるだろうか。どうしたら健康に長生きできるだろうか。そのようなことばかりに目を留めてきました。その甲斐あってか、日本は戦後の混乱を乗り越え、経済大国になり、そして世界一の長寿国になりました。
しかしどうでしょうか。その経済発展と長寿社会が、今私たちを苦境へと追いやっています。
日本は他の国と比べれば、まだまだ豊かな国です。しかし、一度頂点を極めた私たちは、今の状況を最悪の状況だと思っています。また、長寿社会になり、人々は喜ぶどころか老いる事への恐怖を感じています。
 
私は今四十肩で苦しんでいます。左腕が思うように動きません。無理をすると激痛が走ります。そこで四十肩について調べてみると、昔は四十肩、今は五十肩と呼ぶことが分かりました。なぜ呼び方が違うかというと、どうも日本人の寿命と関係があるようです。というのは、戦前は「人生50年」と言われ平均寿命は50歳だったからです。ということは、今よりも戦前の方が四十肩、五十肩で苦しむ人は少なかったと言うことです。ほかの病気でも同じ事が言えると思います。戦前は結核など感染症でなくなる人が多く、心臓疾患や癌などで亡くなる心配は今ほどはなかったと思います。
 
話が逸れてしまいましたが、関心がどこに向いているかと言うことは、信仰を持つ上でも、またクリスチャンとして歩む上でもとても重要なことです。たとえクリスチャンであっても、普段の生活でその関心が聖書や信仰のことが優先しないで、この世のことに向けられていたら、それはナザレの人々と同じです。
今のあなたの関心はどこにありますか?趣味ですか?趣味の音楽やゲーム、映画、レジャーですか?
それらが悪いとは言っていません。それらへの関心が信仰よりも優先されてしまうことが問題なのです。
もし、日本のクリスチャンに責められるところがあったとしたら、その点にあるかもしれません。
 
続いて24節を見ましょう。
4:24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
 
もし皆さんが有名人になって故郷へ凱旋したら、人々はあなたを大歓迎してくれるでしょう。
今はあなたは単なる野球少年かもしれません。単なる卓球選手、バレーボール選手、テニス選手かもしれません。しかし、あなたがイチローのような有名な選手になったら、また愛ちゃんや舞ちゃんのような世界で活躍する人になったら、きっと町をあげて迎えてくれるでしょう。
しかし、預言者は異なります。預言者はたとえその町が自分の故郷であっても神からのメッセージを伝えなければなりません。罪を指摘し、そして悔い改めを促すメッセージを語らなければなりません。そうしたらどうでしょうか。町は歓迎してくれるでしょうか。いいえ、それどころか恨みを買ってしまうでしょう。「あいつは幼い頃から知っている。親父も知っている。そいつが何を生意気な!」と言われてしまいます。
その通りに、主イエスが旧約時代のことを彼らに語ったとき、彼らは一転、怒りだし殺そうとしました。
25〜29節をご覧ください。
4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
4:26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
4:27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
 
主イエスは、ナザレの人々を怒らせるためにこのような事を言ったのでしょうか。いいえ、そうではありません。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(詩篇19:7)と聖書は語ります。主イエスは、彼らのたましいを生き返らせるために語られたのです。
 
シドンという町も、シリアという国もナザレから近いところにありました。それらはイスラエルの中心地でありエルサレムのあるユダヤ地方よりも、彼らにとって関わりのあるところだったでしょう。しかし、そこは異邦人の地でした。
主イエスは、そこで行われた旧約聖書の奇跡を通して、彼らの信仰姿勢を正そうとされたのでしょう。
シドンの女性は、「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」(1列王17:24)と告白しました。
また、シリアのナアマンは、「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。」
(2列王5:15−17)と告白しました。
 
会堂での聖書朗読の前に、ユダヤ人たちは信仰告白を唱えます。それは申命記に書かれている
6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
という御言葉でした。
主イエスは、彼らの口先だけの告白、上辺だけの信仰を指摘し、シドンの女性、シリアのナアマンらの信仰告白を通して、ナザレの会堂に集まった人々が、文字で書かれた告白を読むだけの信仰ではなく、心からの信仰告白を持って神に仕えるように促されたのです。
 
皆さんはどのような信仰告白を持って信仰生活を送られていらっしゃるでしょうか。
「主よ。あなたの言葉は真実です!」
「主よ。あなたのほかには神はありません。あなたは私の神です!」
「私は心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたを愛します!」
そのような信仰告白を持っているでしょうか?
 
また、あなたの関心はどこに重きがあるでしょうか?神のことでしょうか?それともこの世のこと、自分のことばかりでしょうか・・・?
もし私たちが主に心を向け、これらの信仰の言葉をもって主に近づけば、主は灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださいます。(イザヤ61:3)

2008年6月22日
ルカの福音書 4章1〜13節
 
4:1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、
4:2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
4:5 また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
4:6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
4:7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
4:8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、
4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
4:13 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。
 
今お読みしたルカの福音書4章を学ぶ前に、一つ前の章である3章23節の言葉と、その後に続く系図について少しだけ触れていきたいと思います。3章23節をご覧ください。
3:23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。
 
ルカはここで三十歳という年齢を記録しています。四つある福音書の中で、その年齢に触れているのはルカだけです。
三十歳という年齢は聖書の中で特別な意味を持っています。三十歳というのは祭司の家系に生まれた者が祭司としての務めを始められる年齢です。また、イスラエルの初代王であったサウルが王位についたのが三十歳であり、ダビデもまた王位についたのは三十歳でした。ルカがそれを意識して記録したかどうかは分かりませんが、三十歳という年齢にそのような意味があることを皆さんにお伝えしておきます。
 
次に、その後に続く系図ですが、明らかにマタイの福音書に記載されている系図とは異なるところがあります。
ある人は聖書の中の矛盾だと言って聖書はすべてが正しいとは言えないと主張します。しかし、もし間違っているとしたらあまりにも違いすぎます。ですから、その違いにはマタイとルカが記載した意図の違いがあると思います。
その違いについてマタイの福音書はヨセフの系図、ルカの福音書はマリヤの系図だと言われていますが確証はありません。また、子供がいなかった場合などに養子縁組される場合もあり、一方は法定上の子孫をたどり、もう一方は身体上の子孫をたどったのではないかとも言われています。しかし、どの捉え方も確証がありません。
ただ、はっきりしていることは、マタイはユダヤ人に宛てられた福音書であり、ルカは異邦人に宛てられた福音書という違いが、系図の違いに現れてきていると思います。つまり、これらの系図を通して主張しようとしたことが異なっていると言うことです。
マタイは主イエス・キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることを主張し、ルカはその系図はアダムまで、いや神にまで至ると言うことを主張したかったのだと思います。
 
系図についてはこの辺にして、今日のテキストであるルカの福音書4章1〜13節を学んでいきましょう。
主イエス・キリストはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた後、聖霊によって荒野へ導かれました。
私たちは“聖霊に導かれ”と言われると特別なことにように思いますが、それは特別なことではありません。本来、すべてのことが神から発し、すべてが神によって導かれていました。私たちは罪を犯すことによってその神の導きに逆らう者となってしまったのです。神の導き、聖霊の導きは私たちの身近にあります。私たちはそれを望みさえすれば、いつでも聖霊によって導かれることは可能なのです。そして、罪のない主イエス・キリストであればそれは当たり前の行為でした。
 
そのように聖霊によって荒野に導かれた主イエス・キリストは四十日間の断食をされました。四十日間というのは驚くべき日数です。どのような環境で、またどのような断食をされたのかは分かりません。ただ、聖書には同じように四十日間の断食をした人がいます。それは旧約聖書を代表するモーセです。彼はイスラエル人たちが犯した罪のために断食しながら祈りました。主イエス・キリストも同じように、全人類の罪のために祈られたことでしょう。
 
さて、ここで皆さんが信仰的理由で断食をされる場合の注意点をお話ししておきたいと思います。
旧約聖書では、贖罪の日に断食をするように教えられていますが、今の時代のクリスチャンに断食は命じられてはいません。祈りはその祈りが正しければ神に聞かれます。断食すれば祈りの効果が増すわけではありません。
断食は、まず何の目的もなく、何となく信仰的にレベルアップされるのではと言う理由では行わないでください。断食はあなたのレベルアップのためではありません。何かはっきりした祈りの課題を持つことが大切です。聖書では多くの場合、断食は人の贖罪のため、つまり、自分や他の人の罪のために神の赦しを請う目的で行われています。また、新約聖書では宣教師を派遣する時にも断食して祈っています。そのような理由と目的をはっきりとした上で断食は行ってください。もしあなたが正しくない断食をした場合、あなたはかえって落ち込んだり、断食に成功した自分を誇るようになってしまいます。注意してください。
 
さて、断食の後、主イエス・キリストは悪魔の誘惑に遭われました。
一つ目は、「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
二つ目は、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
三つ目は、「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。」
でした。
 
今日は特に二つ目の誘惑の言葉に注目したいと思います。
「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
 
次の聖句を開きましょう。
マタイの福音書11章27節、28章18節。
 
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 
お気付きですか?そうです。悪魔は主イエス・キリストと同じことを言っているのです。「すべてが自分に任せられている・・・」
これは何を意味するのでしょうか?それは、「私こそ救い主だ」という悪魔の表現なのです。
悪魔は私たちに、「私を拝むなら、あなたは欲しいものをすべて手に入れられるよ。私が与えるこの世の富によってあなたは救われるよ。」と誘惑してきます。
そしてもう一つ、この悪魔の言葉と主イエス・キリストの言葉には大きな違いがあります。主イエス・キリストは、「父から渡されている」ということを明確にしていますが、悪魔はそれを隠しています。
 
もう一箇所開きましょう。ヨハネの福音書8章44節
 
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
 
実に悪魔の誘惑は巧妙です。あたかも親切で権威を持った者だと勘違いするような言い方で私たちに近づいてきます。あのアダムとエバを誘惑したときのように・・・。
しかし、主イエス・キリストの言葉は違います。主イエス・キリストの言葉には必ず「父」が出てきます。
そして、私たちに与えてくれるものは、権力と栄光ではなく、いのちであり、救いであり、赦しであり、愛であり、聖霊なのです。しかも、それらを求める方法は、悪魔が要求する「私を拝むなら」ではなく、「祈り求めるならば」です。
 
悪魔は巧妙に私たちに働きかけてきます。経済的に豊かなときも、また、今の時代のように経済的に苦しくなってくるときも、悪魔は人々に神に救いを祈り求めることではなく、この世の富こそあなたを楽にしてくれると教えてきます。
また、悪魔は祈りは無駄であると教えてきます。罪の悔い改めや赦しを請うことなど無駄であると教えてきます。
あなたは思ったことはないでしょうか?祈ってもお腹はふくれない。祈ってもお金が儲かるわけではない。祈っても問題が解決されるわけでもない。祈っても病気が治るわけではない。などと・・・。
悪魔はあなたの心にそのように働きかけてきます。そして、お金さえあれば病気も治せる。お金さえあれば心配はなくなる。と語りかけてきます。
しかし、神は私たちに何が必要かを知っておられ、それを与えてくださる方です。
 
皆さん、騙されないようにしましょう。私たちのいのちの源は父なる神にあります。すべての権威と栄光は父なる神のものであり、それは父が御子である主イエス・キリストに渡されたものです。
 
最後に次の言葉を読みましょう。ピリピ人への手紙3章19〜21節
 
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 
悪魔は、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。」と主イエス・キリストに言ってきました。同じ言葉をあなたにも語りかけてくるでしょう。しかし、その栄光は本当の栄光ではなく「恥」であることを覚えましょう。また、地上のことだけに思いが行くとき、私たちは悪魔に騙されることを覚えましょう。
そして、私たちは私たちの国籍は天にあること、私たちの救い主は主イエス・キリストであること、主イエス・キリストこそがすべてのものを従わせることのできる方であることを覚え、この方に期待を寄せていきましょう。主イエス・キリストは、その万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちに権力と栄光を与えられるのではなく、あなたの卑しいからだを、主イエス・キリストの栄光のからだとおなじ姿に変えてくださるのです。私たちはこの地上のことではなく、そうした神の約束された天の宝に心を向けていきましょう。なぜなら、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

2008年6月15日
ルカの福音書 3章21−22節

今日は、「家族を考える日」と言うことで、この集会を企画しました。
数年前までは、母の日は母の日として、父の日は父の日として、それぞれに行うことができていました。しかし、最近では両親が離婚されて、母子家庭、父子家庭がとても多くなり、誰か一人に気を使うと何もできないようになってきました。
たとえば、「○○さんにはお母さんがいないから母の日を行うと辛い思いをさせてしまう」。逆に、「○○さんにはお父さんがいないから父の日を行うと辛い思いをさせてしまう」という具合にです。
また、もう一つの問題は、家族がない方が増えていると言うことです。つまり、親、兄弟、親族がいないという方です。いたとしても自分とは関わりがなくなっていたりします。
たとえば、ネット難民という言葉でも知られるようになった人たちは、帰る家もなければ助けてくれる人もいない、孤独な環境です。
そのような時代に、「家族を考える」と言っても、「自分には考えるような家族などいない」と言われてしまいそうです。
しかし、私たちはだからと言ってそこに目をつむっていってはいけないと思います。なぜなら、今の状況は決して正常なものではないからです。また、それは聖書に反することばかりだからです。そして、そのことが多くの離婚を生み、ネット難民を生み、残虐な犯罪を生み出しているからです。
 
また私たちは、「自分の家族は大丈夫だ」とか「私たちは正常だ」などと考えないで、私たちはもう一度自分の頭、自分の心をリセットして、本当に自分の家族の在り方が良いのだろうかと、反省したり考えたりするときとしていただきたいと思います。
また、独身の方も、自分には関係のないこととは考えないで、この機会に、神がどのような心を持った方なのかを知っていただきたいと思います。
それでは、まず最初にルカの福音書3章21−22節をお読みいたします。
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
 
私たちは「愛」という言葉を好みます。しかし、残念ながら、日本人はあまり「愛しているよ!」という言葉を妻や夫、子供には使いません。
米国では、I love you. という言葉を頻繁に使うようです。家族だけでなく友達にも使うようです。しかし、もし日本で同じように友達などに使ったらプロポーズされたと勘違いされてしまいます。
昨日、東北の方で大きな地震で多数の方が亡くなったりケガをされたりしました。そのニュースを見ていた家内が、「人間はいつ死ぬか分からないね〜」とポツリと言ったので、すかさず私は家内に、「愛しているよ。だからもし今死んでもそのことだけは覚えておいてね!」と言いました。するとそこに末娘が来たので同じように言うと、「あ〜ビックリした〜。いきなりお父さんが変なことを言うから、どうしちゃったかと思った〜。」と言われてしまいました。まあ、これが日本人の反応でしょう。
私の話はさておき、もう一つ、私たちは、「わたしはあなたのことを喜んでいるよ!」と、夫や妻、そして子供、またあなたのお父さんお母さんに語りかけたことはあるでしょうか。
そうではなく、「お母さんの作ったご飯は美味しくない」、「おまえがしっかりしないから子供たちはこうなるんだ!」、「もっと家の中をきれいに片づけろ!」、「もっと勉強しなさい!」、「早くしなさい!」などという文句ばかりが多く、相手を褒める言葉が少ないのではないでしょうか。
 
私たちが信じている神は、ご自分のひとり子である主イエスに対し、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言われたお方です。
あなたは神を信じますか。「神様なんていない!」「そんなの信じたところでどうなる!」「神がいるなら見せてくれ」とあなたは言うかもしれません。
しかし、神はあなたより愛の深い方ですよ。どうしてですか。ちゃんと自分の息子に対して、「愛しているよ」と声をかけています。また、神はあなたよりも心の豊かな方ですよ。どうしてでしょうか。ちゃんと言葉で、「わたしはあなたのことを喜んでいるよ!」と言われているからです。
どちらが愛があり、心が豊かですか。目に見えるあなたは、目に見えるあなたの子供、またはあなたの両親に、「わたしはあなたを愛しているよ、わたしはあなたを喜んでいるよ。」と言ったことがあるでしょうか。
 
今日は父の日ですね。あなたは何をプレゼントしましたか。一番のプレゼントを教えましょう!それは、「お父さんが僕のお父さんだということが一番嬉しいよ!」という言葉です。
恥ずかしいですか?そうですね。日本人の皆さんにとってそれはちょっと照れくさいことです。私もそうです。だから、私は皆さんにお話しする前に、私の父にそのことを伝えました。実は私も初めてでした。
子供には言ったことがあります。「お父さんとお母さんの子供に生まれてきてくれてありがとう!」と。
しかし、この説教の準備をしていて、私は気が付いたのです。「そうだ。自分はこれまでに、父や母にその言葉を言ったことがなかった」と・・・。
神は私に、このルカ3章22節の言葉を通してそのことを気が付かせてくれました。
実に、目に見えないお方は、目に見える私たち以上に、愛情表現の豊かな方です。そして、本当に愛のある方です。
 
私たちの愛は偏った愛です。特に最近の日本の親の愛は偏っています。
ある日本の小学校での出来事です。学芸発表会で白雪姫の物語を演じることになりました。そして主役である白雪姫を誰がやるかと言うことになったとき、親たちが、「学校の劇で主役が一人というのは正当ではない」と抗議し、結局、25人の白雪姫が登場し、小人も、魔法使いのおばあさんもいない白雪姫になってしまったそうです。
皆さん、笑い話ではないですよ。もし、一人でもそれはおかしいと気が付いて勇気を持って変えようとすれば、そのようなおかしな劇はなかったはずです。
 
先週、秋葉原で悲しい事件は発生しました。私たちは彼のことをモンスターと呼ぶかもしれません。しかし、同じ自己中心的なモンスターの心が私たちの中にもあることを認めなければなりません。
「自分の子供だけは負け組にさせたくない。」「ワーキングプアーな生活を送らせたくない。」という思いが強く、自分の子供のために一生懸命になりすぎています。
秋葉原での事件の加害者も、そうした親の思いで育てられてきました。彼の場合はとても極端でしたが・・・。
親が彼の作文や描いた絵を手直しし、そして表彰されていたようです。
私たちはそこまではしないにしても、自分の子供をまるで自分の作品のように躍起になって作り上げようとしてはいないでしょうか。そして、その作品が思うように出来上がらないと腹を立て、手をあげてしまいます。
子供を叱ることは良いことです。聖書は叱らない父親であってはいけないと教えています。
参考までに一箇所その聖書の言葉をご紹介します。旧約聖書/箴言22章15節
22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
 
聖書は子供の心に愚かさがあることを教えています。もし放置すればその愚かさは子供に残されたまま大人になってしまいます。それを断ち切るのが親の役目、大人の役目なのです。そのために子供を叱ったり叩いたりすることは許されることです。それと暴力とを混同してはいけません。
あなたが子供を叱るとき、それは子供を愚かさから断ち切るためのものですか?
それとも自分の思うように子供が言うことを聞かず腹を立ててのことですか?
私たちは偏った愛がないか、偏った愛し方をしていないだろうかを、聖書の言葉と照らし合わせて点検していきましょう。
 
そうした欠点だらけの私たちとは違い、神は偏った愛を持った方ではありません。私たちは、神の愛から学ぶべきです。
神はご自分のひとり子を愛していました。そして喜びの対象でした。しかし、その神は私たちのためにそのひとり子を捧げられたのです。
神はあなたのその偏った心、罪深い心を取り除くために、ご自分のひとり子が身代わりとなって罰を受けられるのを許されたのです。
ヨハネの福音書3章16節をご覧ください。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
あなたは自分の子供をどのような人間になってほしいと考えているでしょうか。
私たちは自分の子供が将来、自分のために生きるのではなく、社会に貢献し、神と人とに仕える者になるように育てなければいけません。教育はそのためにあるのです。自分の子供だけが勝ち組になるために教育があるのではありません。社会に貢献する人を育てるために教育はあるのです。
私たちはいつしか神の愛を忘れ、神が私たちの作ってくださった目的までも忘れてしまい、自分勝手に生きるようになってしまいました。聖書はそうした人間の姿を浮き彫りにし、今の私たちに必要なのは何かを教えているのです。
皆さん、子供は神があなたに預けたたましいです。子供はあなたのものであって、あなたのものではありません。
マリヤはそのことをよく理解していました。母として主イエスが親から離れ、そして十字架に向かっていくことにマリヤは心引き裂かれたでしょう。しかし、マリヤは主イエスが神から預かり、神に捧げなければならないことを理解していました。
聖書の中には他にも同じような母親が登場します。サムエルの母ハンナ、バプテスマのヨハネの母エリサベツなどがそうでした。あなたは彼女たちと比べどうでしょうか。
また、お父さん、お母さん方だけでなく、独身の方々、若い方々いかがですか。
あなたは何のために生きていますか。もしあなたが自分のためにだけ生きているとしたら、自分のためにだけ生きようとしているとしたら、あの秋葉原での事件の容疑者と心は何も変わりません。
 
聖書をもう一箇所開きましょう。1コリント13章4−7節
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
 
ここで神は私たちに、愛というのは実践が伴うものであることを教えています。つまり、愛は単なる口先だけや心の中だけのことではなく、実際の行動が伴っていなければならないと言うことです。
あなたは寛容ですか?あなたは親切ですか?あなたは自慢していませんか?あなたは礼儀正しいですか?
あなたは欲張りではないですか?あなたは短気ではないですか?あなたは忍耐を持っていますか?
神は言葉だけの方ではなく、実践を持ってそれを私たちに示してくださいました。
主イエス・キリストはあなたのために身代わりとなって十字架で自分の命を犠牲にしてくださいました。
また、その十字架上で、「父よ彼らをおゆるしください」と自分を十字架につけた者たちが赦されるように祈られました。これが神の愛です。
私たちはこの神の愛に従って歩みたい者です。そして、あなたの子供を社会でこの愛を実践できる者として育てていくことが神の御心です。
 
さて、私は若い頃、NHKで放送されていた「大草原の小さな家」という番組が好きで、そのような家庭を築きたいと憧れました。そして、そうした家庭がアメリカにはあると考えていました。しかし、最近のアメリカは全く反対な社会になってきていると聞いています。
どこの家庭も共働きで、子供たちも忙しく、家族がそろって食事をする時間がなく、食事のほとんどがファストフーズか、宅配ピザのようなデリバリーか、電子レンジでチンするものだそうです。
私たちの国もそのようになってきています。
子供を少しでも良い学校へ進ませるため、また、将来成功するために、親たちは躍起になって子供を塾や習い事に通わせます。子供たちも落ちこぼれになるまいと、また負け組になるまいと必死になっています。
また、最近では社会への女性進出を呼びかけ、主婦業は悪いことだと言わんばかりになってきています。これまでになされていた配偶者控除は減額され、主婦は外で働くようにとし向けられています。
そして、親たちは子供の教育費を稼ぐために夜遅くまで共働きし、子供は学校から帰ってくると電子レンジで温めたものを一人で食べて塾へ行きます。
そのような家庭に親が子供を教育する時間や場所があるでしょうか。
誤解しないでください。女性が社会で働いてはいけないと言っているのではありません。子供たちを塾に行かせてはいけないと言っているのではありません。そうではなく、社会やこの世の中が、「これは正しい」「これは新しい生き方だ」と私たちに押し付けている考え方がすべて正しいのではないと言うことを知ってほしいのです。また、この社会の流れに流されて、気が付いてみると、子供を恐ろしいモンスターにしてしまったと言うことがないようにしてほしいのです。
そのために必要なのが、私たちが神の言葉に耳を傾けることです。神は聖書を通してその言葉を私たちに与えてくださいました。
その神は私たちに、あなたがたは愛し合っていますか?あなたがたは喜び合っていますか?と語りかけています。
もし私たちが家庭の中でももっと愛し合い、喜び合うことができたら、あなたの家庭は変わるでしょう。
また私たちが社会でお互いを愛し合い、お互いを喜び合い、お互いを認め合うことができれば、愚かな犯罪を防ぐことができ、私たちも安心して子供を育てることができるようになるでしょう。
もう携帯電話がなくても安心という社会が訪れてほしいものです。
神はあなたのことを愛しています。そして、あなたのために主イエス・キリストは喜んで十字架で死んでくださいました。その愛を今日のこの集会で学んで帰っていただきたいと思います。

2008年6月8日
ルカの福音書 3章15−22節

3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
3:19 さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、
3:20 ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
 
今月からガソリンがまた高くなりました。そして更に上がると言われています。食料品も上がり、様々なところで私たちの生活は悲鳴を上げています。そのようなとき、どこかの誰かが何とかしてくれないかとついつい思ってしまいます。
たとえば、だれか特別な人が現れて、今の原油高を下げてくれたり、石油に変わる画期的なエネルギーを開発してくれないかと期待してしまいます。皆さんはいかがでしょうか?
人は困難な状況になったとき、その困難な状況から救ってくれる何かを期待したりします。
 
今から2000年前のイスラエル人たちを囲む状況も困難を極めていました。そのような中で、人々の心には救世主を求める思いが強くなってきました。
 
救世主という言葉はメシアとも呼ばれています。そして、この言葉は旧約聖書から来ています。このメシアがギリシャ語にされてクリストス、つまりキリストと呼ばれるようになりました。ですから、イエス・キリストというのは名前ではなく、正しくは「イエスは救い主です」という告白の言葉なのです。
この救世主=救い主=メシア=キリストという言葉の語源は、ヘブル語で「油注がれた者」という意味を持つマーシーアハです。「油注がれた者」というのは、職務を表すことばで、王、祭司、預言者を任命するときに、頭に油が注がれたところから来ています。また、この油注ぎと言う行為は、神の霊、つまり聖霊がその人に下ることを表しています。そのことを示す言葉として旧約聖書イザヤ書61章1節を開きたいと思います。
 
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
 
さて、新約聖書の時代、つまり主イエス・キリストの時代にはイスラエルにはローマから任命された異邦人の王などはいましたが、ダビデという正規に王族の流れを持つイスラエルの王は久しく存在していませんでした。
また、これまでにも学んできたとおり、祭司もアロンの家系から外れ、ローマ帝国によって任命されるようになっていました。つまり、神から聖霊が下り、油注がれて王や祭司に任命される者がいないという状況だったのです。
ローマ帝国による支配、そして宗教的腐敗。それらが相まって、当時のイスラエル人たちに新たな油注がれた者の到来を期待する思いが強くなっていったのです。
そして人々は、バプテスマのヨハネが、その油注がれた者=メシアではないかと考えたのです。
それに対して、バプテスマのヨハネははっきりと否定し、自分など、その方のくつのひもを解く値うちもないと語り、本当のメシアは、聖霊と火とのバプテスマをお授けになり、手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされると、人々に示したのです。
 
さて、本当のメシア、つまりキリストとは誰なのでしょうか? 本当の油注がれた者、神の聖霊が下られた方とは誰なのでしょうか? バプテスマのヨハネは、自分ではないと語りました。
 
聖書の次の箇所でバプテスマのヨハネはこのように証言しています。
ヨハネの福音書1書19−34節をご覧ください。
 
1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。
1:20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。
1:21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
1:22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」
1:24 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。
1:25 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
1:26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
1:28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。
1:31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32 またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
 
バプテスマのヨハネは、聖霊が下られた方こそメシアだと言いましたが、実に、ベツレヘムで生まれ、ナザレで育たれたイエスこそ聖霊が下られたメシア=キリストであったのです。
 
しかし、残念なことに、当時のユダヤ人たちは、このナザレ人イエスをメシア=キリストとして受け入れることをしませんでした。聖書はそのことを次のように語っています。
先ほどと同じヨハネの福音書1章9−11節をお開きください。
 
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 
本来ならば、真っ先にこのメシア=キリストを受け入れなければならなかったユダヤ人たちが拒んだのです。それはイエスがキリストではなかったからではなく、当時のユダヤ人たちが神を見ずに、この世のことに気遣いし、ローマ帝国や民衆にばかり目が行ってしまい、神が聖書の中で示された啓示に目を留めることができなかったからです。そして、ナザレから何の良いものが出るだろうかと蔑んで、イエス・キリストを拒んでしまったのです。
 
同じ事が私たちにも言えます。神を見ずしてこの世のことに気遣いしていくとき、私たちは本当のメシア=キリストを見誤ってしまうでしょう。そして、キリストではないものを自分の救世主としてしまうでしょう。
聖書は私たちに似せキリストが現れることを警告しています。
マタイの福音書24章3−5節をお開きください。
 
24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
 
事実、これまでに実に多くの偽キリストが登場し、また今も登場しています。そして、それらは社会的困難や混乱の中で多く発生しています。ですから、今のこの状況の中で、私たちは十分に注意しなければなりません。特に、黙示録の中には反キリストとか獣と呼ばれる、驚くような力を持った存在が、あたかも救世主のようにこの世界に登場してくると教えています。
現在、このグローバルな社会では、燃料問題も食糧問題など、もはや一国の問題ではなく世界的に取り組んでいかなければならない事柄や状況が多くあります。そして、人々はそのような中で世界を救う救世主を求め始めています。また、お金こそ救世主であると考えてしまう多くの罠があります。
ですから、私たちは注意が必要です。信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さないようにしていないと、私たちも世の人たちと同様に惑わされてしまいます。
 
あなたにとって救い主とは誰ですか?あなたにとって救い主とは何ですか?
神が示す、油注がれた、本当の救い主は主イエス・キリストお一人です。
使徒の働き4章10−12節をご覧ください。
 
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
 
ペテロとヨハネはお金を持っていませんでした。しかし彼らには特別なものがありました。それはナザレ人イエス・キリストという名前です。彼らは美くしの門というところに座っていた足の不自由な人に言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
 
ナザレ人イエスこそキリストなのです。なぜなら、この方こそ、聖霊が下られた油注がれた者であり、私たちのために十字架で死なれ、そして三日目によみがえられ、救い主としての証拠をお見せになられたからです。
この主イエス・キリストは、手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(ルカ3:17)
 
箕というのは、麦の中身と殻とを分ける作業のことを表しています。そして殻は不必要な物として燃やされます。
私たちは自分は日本人だ、アメリカ人だ、中国人だ、フィリピン人だと言うことをことさらに気にします。また、同じ国民であっても民族の違いを気にしたり、肌の色の違いを気にしたりします。
しかし、それは私たち人間が気にしていることで、神の前に大切なのは国籍や肌の色ではなく、神への信仰があるかどうか、主イエス・キリストを救い主として受け入れているかどうかと言うことなのです。
 
神は主イエス・キリストを通し、あなたを麦と殻に振り分けられます。イエスをあなたのキリスト、つまりあなたの罪からの救い主として信じている者は麦として収穫され、そうでない者は自分の罪のゆえに罰を受けなければなりません。
神は私たちが自分自身の罪のためにさばきを受けることがないようにと、主イエス・キリストを遣わしてくださいました。ぜひあなたも、この本当の救い主を信じ受け入れていただきたいと願います。

2008年6月1日
日本においては、あまり牧師の仕事というものが理解されていません。それは無理もないことだと思います。日本人にとって牧師とは、ほとんど自分の生活に関係のないことだからです。私たちは自分の生活とは関係のないことには関心が薄くなります。ですから、当然、牧師という仕事がなんなのかという関心もあまりないわけです。
しかし、いくら関心がないからと言っても、牧師はご飯を食べなくても、お金がなくても生きていけると考えている人がいることには驚きです。
日本や中国には仙人という不老不死の力を持った架空の人間の物語があります。そのような架空の存在と牧師を同じにされては困ります。
また、ある人は、牧師は物静かで冗談を言わない人だと思っています。
そう思われているとしたら、私は牧師らしくない牧師なのかもしれません。
そのように、牧師という仕事はあまり世の中の人たちには理解されていない職業です。しかし、実は牧師という職業は、とても大切な職業なのです。
 
中坊公平さんという元弁護士の方がこう言われました。
「弁護士・医師・牧師の3つの職業は、トラブルや病気や死という他人の不幸の上になりたっている職業だから、ビジネスとしてだけでなく、プロフェッション(専門職)でなくてはならない。」
 
多くの方は、義務教育である小学校、中学校を卒業後、高校へ進学します。そして、高校を卒業後、ある人は就職、また大学へと進みます。
大学の本来の目的はプロフェッション、つまり専門的知識や技術を学び体得するところです。
その大学が最初に作られたのは中世のヨーロッパで、学部というのは法学部、医学部、神学部の三つでした。
このことからも分かるとおり、弁護士、医者、牧師という職業はとても重要だと考えられていました。
つまり、専門的な知識を有し、素人であってはならず、また、お金目的であってもいけない職業がこの三つなのです。それゆえに、周りもこれらの人たちを大切に支えていかなければならないという意味です。
 
旧約聖書にレビ族というイスラエルの一つの部族が出てきます。レビ族は宗教的な事柄に携わることが役目でした。そんなレビ族は、他の部族には領土の割り当てがありましたが、レビ族だけには与えられませんでした。しかし、各部族はこのレビ族を養っていくという役割を果たさなければなりませんでした。
 
そのレビ族の扱いと同じように、弁護士、医者、牧師と言う職業は、公共のための存在なのです。
しかし、日本におけるこの三つの職業を比較してみると、弁護士と医者は高額の収入を得ることのできる職業になってしまい、牧師はというと貧しい生活を耐えなければならない職業となっています。
私は私の待遇を上げるためにこのことを申し上げているわけではありません。
人々の関心がどこにあるかということを皆さんに気づいていただきたいと思い、このことをお話ししています。
 
つまり、弁護士というのは人々の権利を守る仕事です。人々は、自分の権利には敏感で、それを犯されると反論したり反発したりします。
医者というのは人々の健康を守る仕事です。人々は、自分の健康には敏感で、健康が冒されると医師を頼ります。
牧師は、人々のたましいや心を守る仕事です。それは精神科とカウンセリングとは異なります。
たましいとは人と神を結ぶものです。牧師とは神と人との関係を正すことを働きとしている仕事です。
この牧師の仕事が重要視されていないと言うことは、それだけ人々が自分と神との関係に関心がないことの表れです。
そして、そのことへの関心の低さが問題であることに気が付いていただきたいのです。
 
日本人の多くが、自分は無宗教であると考えています。ところが、ほとんどの日本人は、神社に行ったり、お祭りに参加したり、仏壇を拝んだり、はたまた、結婚式をキリスト教式で行ったりしています。占いを信じている人が沢山います。ですから、決して無宗教ではないのですが、問題は、神社へ行ったり、お祭りに参加したり、仏壇を拝んだりすることが宗教であると捉えていないことです。
このことについては、別の機会にもっと詳しく学んでいきたいと思いますが、日本人の多くが、宗教や信仰心と言ったものをオプションのように考えていると言うことです。
 
オプションとは、なくても支障のないものです。あれば便利かなというものです。
よく何かを買うとオプションというものがありますね。
たとえば、旅行のツアーに申し込むときに、提示された料金とは別に、オプションで料理を豪華にすることができたり、立ち寄る場所を増やしたりできます。
車の場合ですと、安全に走る機能はすべてそろっていますが、カーライフを楽しむためのものはオプションと言って別料金で取り付けます。たとえばカーナビなどがそうです。あれば便利。でもなくても差し支えない。というのがオプションです。
ですから、お祭りに熱心だった人も、転勤でお祭りのない地域に引っ越した場合、特に何の問題もなくそこで暮らしていけます。また、仮にアメリカへ行くと、日本では誘われても教会へ行こうとしなかった人が、教会へ通い始めたりします。そして、日本に帰ってくるとまた元に戻ってしまいます。
ところが、自分の上に不幸なことが降りかかると、思い出したかのように神社などへ行き、お祓いをしてもらったりします。
これはまるでオプションです。つまり、信じていればいざというときに役に立つかもしれない。でも普段はそんなに必要ないということです。
しかし、神を信じると言うことは決してオプションではありません。オプションであってはいけません。神を信じると言うことは生きることそのものなのです。そして、信仰は損得勘定で考えてはいけません。つまり、自分にとって得であろうか損であろうかと考えてするものではないと言うことです。
 
ある人は、教会へ行くとお酒が飲めなくなるとかたばこが吸えなくなるなどと言います。それは大きな誤解で、お酒やたばこを必要としなくなると言うことが正しい表現です。
また、お酒やたばこをする人は教会に行ってはいけないというのも真実ではありません。
しかし、お酒が飲めなくなることが損なことなのでしょうか?
たばこを吸えなくなることが損なことなのでしょうか?
ある人は、教会へ行くと悪いことができなくなると言いますが、悪いこととはいったい何なんでしょう。
悪いことが止められるなら良いことではないでしょうか。
要するに、教会へ行くと自分のしたいことができなくなると言うのが、そう言う人たちの言い分のようです
 
新約聖書・ヤコブの手紙1章14〜17節をお開きください。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
 
私たちは自分のしたいこと、したくないことがあります。当然、したいことには積極的で、したくないことには消極的です。
私たちは様々な欲があります。おいしいものが食べたいとか、お金が欲しいというという欲をはじめとして、色々な欲があります。
人には欲が必要です。お腹がすいたときに、食べたいという欲がなければ、食べずに死んでしまいます。
しかし、その欲は時に私たちを間違った方向へと導きます。それが問題だと言うことです。
 
皆さんは、欲をコントロールするための善悪の基準をどこに置かれているでしょうか。
今の日本人のほとんどが、その基準を自分の判断としています。しかし、自分の判断というものは実はいい加減で、曖昧で、変わりやすいものです。
普段は、自分の心の中で、それはいけないことと言い続けていることでも、なにかのきっかけで守れなくなってしまうことがあります。
そのことを聖書は、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。と言っています。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。と続きます。
もし私たちが自分がしたいことばかりをしていったとき、私たちは罪を生み、そしてその罪は死を生むと聖書は教えます。
続いて聖書は、愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。と私たちに警告しています。
あなたのしたいことが、必ずしもあなたの益にはなりません。したいことばかりを求めることは私たちを罪に導きます。
 
欲がもたらす弊害について聖書は次のように言っています。ヤコブ書4:1−3
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
 
皆さんは、自分自身はだまされない自信があるでしょうか?
最近詐欺が横行していますが、皆さんがもし詐欺にあったらそれを撃退することができるでしょうか?
たとえば、あからさまにこれは詐欺だというものは私たちは見破ることができるでしょう。
しかし、詐欺まではいかなくても、私たちの心はうまくコントロールされています。
 
皆さんは携帯電話をお持ちでしょうか?携帯電話は今や必需品となりました。しかし、もし公衆電話がもっと沢山あれば、携帯電話を持つ人はもっと少なかったでしょう。ところが、公衆電話がどんどんと取り外され、今ではコンビニぐらいしか置いてありません。私たちはまんまと電話会社の戦略にはまってしまったわけです。
そして子供を持つ親たちは安心のために子供に携帯を持たせるようになりました。
ところが、安心・安全のためであった携帯が、子供たちを犯罪の危険にさらす結果となり、中学生以下の携帯所持を制限しようかという話題まで出ています。
結局、私たちは安全性を確かめないままで、宣伝に載せられて多くの有害なものを手にしてしまっているのです。
今、テレビはブラウン管から薄型テレビへと移り変わりつつあります。また、通称地デジと呼ばれる地上デジタル放送が開始され、画面がとてもきれいになって、私たちはますますテレビの前から離れられなくなっています。
しかし、テレビというのは罪作りなものです。一方でおいしいものをいっぱい紹介しておきながら、片方ではメタボリックには注意しましょうなど呼びかけたり、運動器具などを売りつけたりしています。もしテレビが一人の人間だとしたら、テレビほど矛盾にあふれた人間はいません。
昔は、ヒアルロン酸とかコラーゲンという言葉など知りませんでした。知らないときはそれがなくても生活できました。しかし、テレビ等で年をとるとヒアルロン酸が不足しひざが痛くなるとか、コラーゲンを取るとお肌に潤いが出てくると宣伝し、あたかもそれが必要不可欠の物であるかのように思わせます。
テレビを悪く言うわけではありませんが、テレビを家に持ち込むと言うことはセールスマンを家に迎えることと同じです。
ブームというのは自然発生的に起こるものだとされていますが、最近では商業的に仕組まれてブームが作り上げられているのです。
ですから、私たちは自分が好きこのんで購入している、また行動していると思ってはいても、実はかなり部分でマインドコントロールされているのです。
そしていつの間にか、私たち必要のないものまで「ほしい!」という感情を持つようになり、買ってしまうのです。また、もし買えないと妬んだりひがんだりするようになるのです。そして罪を犯していくのです。
 
私たちにはそれ以外にも様々な愚かな部分があります。
 
裸の王様のお話は皆さんご存知ですようね。
新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来ます。彼らは何と、馬鹿な人には見えない不思議な布地を織る事が出来るというわけです。王様は大喜びで注文します。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えません。王様はうろたえますが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかありませんでした。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒めるのです。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨みます。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、こう叫んだのです。「王様は裸だよ!」
どうしてこのような愚かなことが起こるのでしょう。
それは人の心には人に馬鹿にされたくないというプライドがあるからです。また、自分の判断は正しいという自負があるからです。
 
主イエス・キリスト様が、「子供のようにならなければ神の国を見ることはできません」と言われました。それは子供に罪がないと言っているのではありません。子供にも罪はあります。
主イエス様が言われたのは、子供にはプライドや自負心、疑う心がありません。
しかし、大人になると自分の知識や判断力に頼るようになります。その判断力で多くの人は自分に得になることしか考えず、神を信じたり神のことを考えたりすることは自分にとって損なことのように思っています。
しかし、私たちはこの世の中と自分の心にだまされてはいけません。そして、神はあなたにとって良いもので満たしてくださる方であることを知っていただきたいと願います。
 
1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
 
私たちの気持ちは移り変わりの激しいものです。また、この世の中が提供するものも移り変わりの激しいものです。今日はこれが良いと言ったかと思えば、明日は別のものがすばらしいという世の中です。そうした世の中に生きている私たちは不確かな時代に生き、心も不安定になり輝きを失っています。
そのような世の中にあって、神は変わることがない方です。
 
聖書は主イエス・キリストの時代から2000年以上が経過した今の時代にも、人々に信じられ、また人々の心の支えとなっています。
私自身もイエス・キリストに、そして聖書に支えられて生きています。
誰しも、他人をつまずかせたり、また躓いたりすることがあります。そのようなとき、私は神に祈ります。どうか私の罪を赦してくださいと・・・。すると神はこう言われます。あなたのその罪は2000年前にキリストが身代わりに背負ってくださった罪ですよと・・・。そう思うとき、私が赦さなければならない人の罪も、イエス・キリストは2000年前に背負ってくださったのだと思うことができ、赦すことができるのです。このように、2000年前のイエス・キリストの十字架は今も変わらず有効なのです。
ですから、私もここに集われた皆さんに、聖書と一緒にお勧めしたいのです。
皆さん、あなたの生活やあなたの権利以上に、また、あなたの健康以上に、どうか神への関心を高めてください。神がおられること、神はあなたを良いもので満たしてくださること、神はあなたを輝かすことができる方であることぜひ信じ受け入れてください。