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日本においては、あまり牧師の仕事というものが理解されていません。それは無理もないことだと思います。日本人にとって牧師とは、ほとんど自分の生活に関係のないことだからです。私たちは自分の生活とは関係のないことには関心が薄くなります。ですから、当然、牧師という仕事がなんなのかという関心もあまりないわけです。
しかし、いくら関心がないからと言っても、牧師はご飯を食べなくても、お金がなくても生きていけると考えている人がいることには驚きです。
日本や中国には仙人という不老不死の力を持った架空の人間の物語があります。そのような架空の存在と牧師を同じにされては困ります。
また、ある人は、牧師は物静かで冗談を言わない人だと思っています。
そう思われているとしたら、私は牧師らしくない牧師なのかもしれません。
そのように、牧師という仕事はあまり世の中の人たちには理解されていない職業です。しかし、実は牧師という職業は、とても大切な職業なのです。
中坊公平さんという元弁護士の方がこう言われました。
「弁護士・医師・牧師の3つの職業は、トラブルや病気や死という他人の不幸の上になりたっている職業だから、ビジネスとしてだけでなく、プロフェッション(専門職)でなくてはならない。」
多くの方は、義務教育である小学校、中学校を卒業後、高校へ進学します。そして、高校を卒業後、ある人は就職、また大学へと進みます。
大学の本来の目的はプロフェッション、つまり専門的知識や技術を学び体得するところです。
その大学が最初に作られたのは中世のヨーロッパで、学部というのは法学部、医学部、神学部の三つでした。
このことからも分かるとおり、弁護士、医者、牧師という職業はとても重要だと考えられていました。
つまり、専門的な知識を有し、素人であってはならず、また、お金目的であってもいけない職業がこの三つなのです。それゆえに、周りもこれらの人たちを大切に支えていかなければならないという意味です。
旧約聖書にレビ族というイスラエルの一つの部族が出てきます。レビ族は宗教的な事柄に携わることが役目でした。そんなレビ族は、他の部族には領土の割り当てがありましたが、レビ族だけには与えられませんでした。しかし、各部族はこのレビ族を養っていくという役割を果たさなければなりませんでした。
そのレビ族の扱いと同じように、弁護士、医者、牧師と言う職業は、公共のための存在なのです。
しかし、日本におけるこの三つの職業を比較してみると、弁護士と医者は高額の収入を得ることのできる職業になってしまい、牧師はというと貧しい生活を耐えなければならない職業となっています。
私は私の待遇を上げるためにこのことを申し上げているわけではありません。
人々の関心がどこにあるかということを皆さんに気づいていただきたいと思い、このことをお話ししています。
つまり、弁護士というのは人々の権利を守る仕事です。人々は、自分の権利には敏感で、それを犯されると反論したり反発したりします。
医者というのは人々の健康を守る仕事です。人々は、自分の健康には敏感で、健康が冒されると医師を頼ります。
牧師は、人々のたましいや心を守る仕事です。それは精神科とカウンセリングとは異なります。
たましいとは人と神を結ぶものです。牧師とは神と人との関係を正すことを働きとしている仕事です。
この牧師の仕事が重要視されていないと言うことは、それだけ人々が自分と神との関係に関心がないことの表れです。
そして、そのことへの関心の低さが問題であることに気が付いていただきたいのです。
日本人の多くが、自分は無宗教であると考えています。ところが、ほとんどの日本人は、神社に行ったり、お祭りに参加したり、仏壇を拝んだり、はたまた、結婚式をキリスト教式で行ったりしています。占いを信じている人が沢山います。ですから、決して無宗教ではないのですが、問題は、神社へ行ったり、お祭りに参加したり、仏壇を拝んだりすることが宗教であると捉えていないことです。
このことについては、別の機会にもっと詳しく学んでいきたいと思いますが、日本人の多くが、宗教や信仰心と言ったものをオプションのように考えていると言うことです。
オプションとは、なくても支障のないものです。あれば便利かなというものです。
よく何かを買うとオプションというものがありますね。
たとえば、旅行のツアーに申し込むときに、提示された料金とは別に、オプションで料理を豪華にすることができたり、立ち寄る場所を増やしたりできます。
車の場合ですと、安全に走る機能はすべてそろっていますが、カーライフを楽しむためのものはオプションと言って別料金で取り付けます。たとえばカーナビなどがそうです。あれば便利。でもなくても差し支えない。というのがオプションです。
ですから、お祭りに熱心だった人も、転勤でお祭りのない地域に引っ越した場合、特に何の問題もなくそこで暮らしていけます。また、仮にアメリカへ行くと、日本では誘われても教会へ行こうとしなかった人が、教会へ通い始めたりします。そして、日本に帰ってくるとまた元に戻ってしまいます。
ところが、自分の上に不幸なことが降りかかると、思い出したかのように神社などへ行き、お祓いをしてもらったりします。
これはまるでオプションです。つまり、信じていればいざというときに役に立つかもしれない。でも普段はそんなに必要ないということです。
しかし、神を信じると言うことは決してオプションではありません。オプションであってはいけません。神を信じると言うことは生きることそのものなのです。そして、信仰は損得勘定で考えてはいけません。つまり、自分にとって得であろうか損であろうかと考えてするものではないと言うことです。
ある人は、教会へ行くとお酒が飲めなくなるとかたばこが吸えなくなるなどと言います。それは大きな誤解で、お酒やたばこを必要としなくなると言うことが正しい表現です。
また、お酒やたばこをする人は教会に行ってはいけないというのも真実ではありません。
しかし、お酒が飲めなくなることが損なことなのでしょうか?
たばこを吸えなくなることが損なことなのでしょうか?
ある人は、教会へ行くと悪いことができなくなると言いますが、悪いこととはいったい何なんでしょう。
悪いことが止められるなら良いことではないでしょうか。
要するに、教会へ行くと自分のしたいことができなくなると言うのが、そう言う人たちの言い分のようです
新約聖書・ヤコブの手紙1章14〜17節をお開きください。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
1:16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
私たちは自分のしたいこと、したくないことがあります。当然、したいことには積極的で、したくないことには消極的です。
私たちは様々な欲があります。おいしいものが食べたいとか、お金が欲しいというという欲をはじめとして、色々な欲があります。
人には欲が必要です。お腹がすいたときに、食べたいという欲がなければ、食べずに死んでしまいます。
しかし、その欲は時に私たちを間違った方向へと導きます。それが問題だと言うことです。
皆さんは、欲をコントロールするための善悪の基準をどこに置かれているでしょうか。
今の日本人のほとんどが、その基準を自分の判断としています。しかし、自分の判断というものは実はいい加減で、曖昧で、変わりやすいものです。
普段は、自分の心の中で、それはいけないことと言い続けていることでも、なにかのきっかけで守れなくなってしまうことがあります。
そのことを聖書は、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。と言っています。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。と続きます。
もし私たちが自分がしたいことばかりをしていったとき、私たちは罪を生み、そしてその罪は死を生むと聖書は教えます。
続いて聖書は、愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。と私たちに警告しています。
あなたのしたいことが、必ずしもあなたの益にはなりません。したいことばかりを求めることは私たちを罪に導きます。
欲がもたらす弊害について聖書は次のように言っています。ヤコブ書4:1−3
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
4:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
皆さんは、自分自身はだまされない自信があるでしょうか?
最近詐欺が横行していますが、皆さんがもし詐欺にあったらそれを撃退することができるでしょうか?
たとえば、あからさまにこれは詐欺だというものは私たちは見破ることができるでしょう。
しかし、詐欺まではいかなくても、私たちの心はうまくコントロールされています。
皆さんは携帯電話をお持ちでしょうか?携帯電話は今や必需品となりました。しかし、もし公衆電話がもっと沢山あれば、携帯電話を持つ人はもっと少なかったでしょう。ところが、公衆電話がどんどんと取り外され、今ではコンビニぐらいしか置いてありません。私たちはまんまと電話会社の戦略にはまってしまったわけです。
そして子供を持つ親たちは安心のために子供に携帯を持たせるようになりました。
ところが、安心・安全のためであった携帯が、子供たちを犯罪の危険にさらす結果となり、中学生以下の携帯所持を制限しようかという話題まで出ています。
結局、私たちは安全性を確かめないままで、宣伝に載せられて多くの有害なものを手にしてしまっているのです。
今、テレビはブラウン管から薄型テレビへと移り変わりつつあります。また、通称地デジと呼ばれる地上デジタル放送が開始され、画面がとてもきれいになって、私たちはますますテレビの前から離れられなくなっています。
しかし、テレビというのは罪作りなものです。一方でおいしいものをいっぱい紹介しておきながら、片方ではメタボリックには注意しましょうなど呼びかけたり、運動器具などを売りつけたりしています。もしテレビが一人の人間だとしたら、テレビほど矛盾にあふれた人間はいません。
昔は、ヒアルロン酸とかコラーゲンという言葉など知りませんでした。知らないときはそれがなくても生活できました。しかし、テレビ等で年をとるとヒアルロン酸が不足しひざが痛くなるとか、コラーゲンを取るとお肌に潤いが出てくると宣伝し、あたかもそれが必要不可欠の物であるかのように思わせます。
テレビを悪く言うわけではありませんが、テレビを家に持ち込むと言うことはセールスマンを家に迎えることと同じです。
ブームというのは自然発生的に起こるものだとされていますが、最近では商業的に仕組まれてブームが作り上げられているのです。
ですから、私たちは自分が好きこのんで購入している、また行動していると思ってはいても、実はかなり部分でマインドコントロールされているのです。
そしていつの間にか、私たち必要のないものまで「ほしい!」という感情を持つようになり、買ってしまうのです。また、もし買えないと妬んだりひがんだりするようになるのです。そして罪を犯していくのです。
私たちにはそれ以外にも様々な愚かな部分があります。
裸の王様のお話は皆さんご存知ですようね。
新しい服が大好きな王様の元に、二人組の詐欺師が布織職人という触れ込みでやって来ます。彼らは何と、馬鹿な人には見えない不思議な布地を織る事が出来るというわけです。王様は大喜びで注文します。仕事場に出来栄えを見に行った時、目の前にあるはずの布地が王様の目には見えません。王様はうろたえますが、家来たちの手前、本当の事は言えず、見えもしない布地を褒めるしかありませんでした。家来は家来で、自分には見えないもののそうとは言い出せず、同じように衣装を褒めるのです。王様は見えもしない衣装を身にまといパレードに臨みます。見物人も馬鹿と思われてはいけないと同じように衣装を誉めそやすが、その中の小さな子供の一人が、こう叫んだのです。「王様は裸だよ!」
どうしてこのような愚かなことが起こるのでしょう。
それは人の心には人に馬鹿にされたくないというプライドがあるからです。また、自分の判断は正しいという自負があるからです。
主イエス・キリスト様が、「子供のようにならなければ神の国を見ることはできません」と言われました。それは子供に罪がないと言っているのではありません。子供にも罪はあります。
主イエス様が言われたのは、子供にはプライドや自負心、疑う心がありません。
しかし、大人になると自分の知識や判断力に頼るようになります。その判断力で多くの人は自分に得になることしか考えず、神を信じたり神のことを考えたりすることは自分にとって損なことのように思っています。
しかし、私たちはこの世の中と自分の心にだまされてはいけません。そして、神はあなたにとって良いもので満たしてくださる方であることを知っていただきたいと願います。
1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
私たちの気持ちは移り変わりの激しいものです。また、この世の中が提供するものも移り変わりの激しいものです。今日はこれが良いと言ったかと思えば、明日は別のものがすばらしいという世の中です。そうした世の中に生きている私たちは不確かな時代に生き、心も不安定になり輝きを失っています。
そのような世の中にあって、神は変わることがない方です。
聖書は主イエス・キリストの時代から2000年以上が経過した今の時代にも、人々に信じられ、また人々の心の支えとなっています。
私自身もイエス・キリストに、そして聖書に支えられて生きています。
誰しも、他人をつまずかせたり、また躓いたりすることがあります。そのようなとき、私は神に祈ります。どうか私の罪を赦してくださいと・・・。すると神はこう言われます。あなたのその罪は2000年前にキリストが身代わりに背負ってくださった罪ですよと・・・。そう思うとき、私が赦さなければならない人の罪も、イエス・キリストは2000年前に背負ってくださったのだと思うことができ、赦すことができるのです。このように、2000年前のイエス・キリストの十字架は今も変わらず有効なのです。
ですから、私もここに集われた皆さんに、聖書と一緒にお勧めしたいのです。
皆さん、あなたの生活やあなたの権利以上に、また、あなたの健康以上に、どうか神への関心を高めてください。神がおられること、神はあなたを良いもので満たしてくださること、神はあなたを輝かすことができる方であることぜひ信じ受け入れてください。
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