愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
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2008年5月24日   この日は他の教会でお話ししたものを掲載しています。
さて、今回のテーマは、「輝いていますか?」です。
とても明るいイメージのテーマですが、その前に、皆さんは自分自身が輝く必要があると思っていらっしゃるでしょうか。それとも、自分など輝く必要なんかないとお考えでしょうか。
今、私たちの国日本が抱えている問題は、一人一人が、「輝こう!」と言う気持ちや意思がなくなり、気持ちが内側に向いてしまっていることです。
輝くと言うことは、それは自分の外側のものを照らすと言うことです。しかし、最近は「自分をほめてあげたい」とか「自分にご褒美」と言う言葉でも分かるように、自分で自分を照らそうとしています。
聖書を一箇所お読みいたします。新約聖書・マタイの福音書5章14〜16節
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 
私自身が輝いているかどうか、世界の光となっているかどうかと問われると、なかなか「はい」とは言える自信はありません。ただ、常にそうありたいとは思っています。皆さんはどうでしょうか?
どうしたら人は輝くことができるのでしょうか? どのような人が輝いている人でしょうか?
まず、一つの例話をお話ししたいと思います。
 
ちょうど1ヶ月前の4月26日の事です。アメリカ・オレゴン州で女子大生によるソフトボールの決勝戦が行われました。ウエスタン・オレゴン大学とセントラル・ワシントン大学との対戦でした。
両チームとも初めての決勝戦という大事な試合で、サラという選手が3ラン・ホームランを打ちました。
ところが1塁をまわったところで彼女に悲劇が起こります。ヒザの靱帯を損傷してしまい動けなくなったのです。
ルールでは、チームメイトが助けたり選手交代した場合、ホームランは無効になってしまいます。
試合は0−0のまま白熱していました。その時に放ったサラのホームランはチームが優勝を決める大切なものでした。それだけにこのホームランは、卒業前の最後の舞台で彼女がヒーローになれた瞬間だったわけです。しかも、そのホームランは彼女にとって初めてのホームランだったのです。
興奮いっぱいに走る彼女は、1塁を踏み外しひざが故障してしまい、崩れるように倒れてしまいました。彼女はなんとか走ろうとしますが、1mも動けない状態でした。
審判は次のように提案しました。「ルール上、残された選択肢は彼女を別の選手と交代させ、ホームランではなく、ヒットと記録する事だけです。」コーチは「わかりました」と告げました。
ところが、そのどうすることもできない状況の中で、奇跡が起こったのです。
相手チームのマロリーとリズという二人の選手がサラの元に駆け寄り、サラを抱きかかえて累を回ったのです。相手チームの選手が手を貸すことは問題なかったからです。
サラを手助けした一人のマロリー自身、ひざを故障し、この試合後に手術を受けることになっていました。そんな彼女は、1塁ベース上で倒れながらも何とか前へ進もうとしているサラの気持ちが自分のことのように分かったのです。
こうして、3人はそろってホームベースにたどり着きました。そして、球場には大きな歓声と拍手が鳴り響きました。
勝負に勝ち負けは大切なものです。しかし、勝敗よりも大きなものがあると言うことを、彼女たちは示してくれました。
 
私たちは常に損か得かを計算しています。しかし、その多くがお金が儲かるか節約できるかということであったり、自分の地位や立場が保たれるかどうかなど、自分を中心にした損得勘定です。
そのような勘定をしている私たちは、お金や物、地位や立場よりも大切なものを捨ててしまっています。
 
私の家内は福岡県の出身です。そこへ帰省するためには多くの旅費が必要になります。
ある夏休みに、家内は小学一年になる末娘を伴って新幹線で帰省することになりました。当然、私たちは大人のキップ一枚と子供のキップ一枚を購入しました。ところが、井戸端会議の中で費用の話になったとき、どうして幼児で乗っていかなかったのかと言われてしまいました
どうして不正をした人がほめられ、正直に生きた人が愚かだと評価されるのでしょうか。
 
先日、掛川に新しくオープンしたレストランへ行きました。そこにはサラダバーというサービスがあって、メタボリックの私は、ランチにそのサラダバーだけを食べて、野菜不足を補おうと考えたからです。
サラダバーは別に注文しなければ取ってはいけません。また、そこにはスープバーやドリンクバーがありますが、それらも一つずつ注文しなければなりません。
ところがです。何人もの人がスープバーにあるコーンスープに、サラダバーのコーンを入れていくではありませんか。それはしてはいけないことです。しかし、当たり前のように何人もの人が同じ行為をしていました。また、サラダバーにはフルーツなどのデザートがありましたが、ドリンクバーのカップに、それらを入れていく人も見かけました。
 
なんと多くの人が、金銭や物質的な得を得るために、正直さを失っていることでしょうか。
正直というのは自分にとって得なものではないのでしょうか。
 
ある人は、交通事故を起こしたときに「ごめんなさい」と謝ると不利になると思い、自分が100%過失があるのに謝罪しない場合があります。
だれがそのようなデマを流したのか分かりませんが、法律においても、また保険においても、謝罪をした方が責任が重くなることはありません。むしろ、加害者が謝らなかったことでその後の示談交渉がもつれる場合があるそうです。ですから、交通事故を起こした場合は、まずお互いの身体を案ずることが望ましいわけです。
このように、私たちは自分が損になると思うと、謝ることすらしなくなります。
ですから、私自身は、自分が悪くない場合でも、先に「ゴメンナサイ」と謝るように心がけています。実はその方が人の心が見えてくるのです。こちらが先に「ゴメンナサイ」と謝って、相手が「いえ、いえ、こちらも悪かったです」などと言ってくる人とは、これからも良い付き合いができますが、こちらが謝っても当然という顔をされたり、無視される方とは、今後の付き合いは難しくなります。
 
さて、例話が長くなりましたが、今の日本に輝きがなくなってきているのは、国が悪いからではありません。私たち国民一人一人が輝きをなくしているからなのです。
なぜ輝きをなくしてしまっているのでしょうか。それは、自らが輝いて周りを照らそうという気持ちが薄れ、自分で自分を照らそうとしているからです。つまり、自分の得になることを求めすぎているからです。
 
最近は株などに投資して、自分の資産を増やそうとしている人が多くなりましたが、儲かる人がいると言うことはどこかで損をしている人たちがいると言うことを知らなければなりません。自分が得をするということは、どこかで泣いている人がいるということを考えないといけません。
皆さんはチョコレートが好きでしょうか。チョコレートは何からできていますか。カカオと砂糖が原料です。カカオはどこで生産されているかご存知でしょうか。ガーナやコートジボワールなどアフリカ諸国が主な生産国です。このコートジボワールのカカオ畑の労働者は隣国から移住してきた子供たちが、奴隷のような状態で働かされています。この子供たちはチョコレートを食べたことも見たこともありません。
 
そうした状態を私たちがどうこうできるわけではありません。私たちの灯すことのできる光は強くはなく、遠く離れた国々にまで影響を与えることはできませんが、しかし、自分の家や周囲の人を照らす光くらいは持つことができます。
もし、私たちが自分に得になることを求めれば求めるほど、自分の心も周りの人の心も暗くなっていきます。しかし、私たちがたとえ損をしても他の人の得になることをすれば、それによって私たちの家は明るくなり、周囲の人も明るくされます。
 
最初にお話ししたソフトボール大会のお話ですが、ホームランを打ったサラを助けた相手チームは2×4で負け地区優勝を逃してしまいました。しかし、この明るい話題はアメリカ全土で知られることとなり、マロンとリズはテレビ番組等で取り上げられることになりました。
私は、このような明るい話題を日本のメディアももっと取り上げてほしいと思っています。つまり、自分を犠牲にして人を助けるという行為をもっとほめる習慣があっても良いと思っています。
 
さて、皆さんはどのような生き方をされておられるでしょうか?自分の得になることには一生懸命になり、逆に損になることには目くじらを立てて反論してはいませんか。
最近、モンスターペアレントとかモンスターハズバンドなどと、なんでもモンスターと付ける傾向がありますが、これらの共通点は、周りが非常識と思われることでも、自分に不利益だと思うと抗議する人のことです。この人たちは自分たちが自己中心的な要求、理不尽な要求をしていることに気が付いていません。もしかしたら、私たちは気が付かないだけで、同じようにモンスターになっているかもしれません。
 
もう一度、新約聖書・マタイの福音書5章14〜16節を見ましょう。
 
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 
どのようにしたら私たちは家庭の光、地域の光、学校の光、職場の光、世界の光になれるのでしょうか。
私たちが輝くためには、まず私たち自身が、求めるものを変えていかなければなりません。
同じマタイの福音書6章25〜34節をご覧ください。
 
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
 
私たちは、あまりにも自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配し過ぎていると聖書は教えます。また、からだのことで、何を着ようかと心配し過ぎたりしていると教えています。
 
お昼のワイドショーで、司会者の方が健康に良いと言って取り上げたものが、その日のスーパーで飛ぶように売れると言われています。
先日も、北海道の評判になっている生キャラメルという商品が、期間限定でローソンというコンビニで売られているとテレビで報じたところ、その直後にお客さんが殺到し、あっという間にその商品は売り切れてしまいました。
そのように、最近ではテレビなどを通して情報があふれています。そして、「あの商品が健康に良い」とか、「今の人は○○が不足しています。」といわれると、人々は敏感に反応するようになっています。
もちろん、私たちにとって健康は大切ですが、しかし、あまりにもそちらに関心が行きすぎてしまっています。
しかし、聖書は私たちに、からだよりもいのちの方が大切ですよと教えます。
ある人は、「いのちが大切だから健康を気にするんだ!」というでしょう。
しかし、聖書はいのちは私たちが維持しているのではないことを教えます。
いのちは神が与えているもので、人は自分のいのちのことで思い煩う前に、いのちを与えてくれている神を求めなさいと教えています。
 
聖書の別の箇所では、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。また、「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」と教えています。つまり、第一に神、その次にあなたの隣り人を・・・と教えています。
しかし、実際はどうでしょうか。第一に自分のこと、隣り人や他人のことは自分に余裕が出てきたら気にかけよう。えっ、神のこと・・・。神のことを考えておなかが満たされるの?何か自分に得になるの?と言う人がほとんどです。
 
このように、人々は自分の得になることには関心はあっても、いのちの源である神には無関心です。そのために人々からはどんどんと輝きが失われているのです。
私たちは考えを改めなければなりません。
私たちがいのちを与えられている理由は、自分のために生きるためではありません。私たちは神のために生きる者としていのちを与えられたというのが聖書の教えです。
そして、その聖書の教える神とは、私たちのために多くの恵みと犠牲を持って、私たちを支えてくださる方です。
ヨハネの福音書3章16節をお読みいたします。
 
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
もう一箇所、お読みいたします。ヨハネの手紙4章10〜11節。
 
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 
今からおよそ2000年前、イエス・キリストは十字架で張り付けにされて殺されました。それは一見、当時の人々によって強制的に処刑されたかのようですが、実は、イエス・キリスト自らが十字架で張り付けになったのです。
神は私たちの自己中心の罪など、私たちから輝きを失わせている罪と呼ばれる心の悪を、神のひとり子であるイエス・キリストに背負わされ、イエス・キリストは私たちの身代わりに罰を受けてくださいました。それがイエス・キリストの十字架の意味です。
そのことを通し、神はまず私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださり、私たちが輝きを取り戻すことができる道を用意してくださったのです。
また、私たちがどのような生き方をすべきかという模範を示してくださったのです。
 
「輝いていますか?」。私たちは輝かなければなりません。しかし、私たちから輝きを失わせているものが私たちの内にあります。私たちはそれを取り除き、変えられなければなりません。そのことは私たちには不可能なことです。しかし、神はあなたに代わって、あなたの内から罪を取り除き、あなたを内側から変えてくださり、あなたに輝きを取り戻してくださいます。ですから、今のあなたに必要なのは、これまでの生き方・考え方を改め、方向転換してあなたの光である神の方へ向きを変えることです。
これまでの生き方を悔い改めて、神を信じ、神のために生きる者となりませんか。また自分のために光を照らす者ではなく、人々のためにあなたの輝きを照らす者になりませんか。そうするとき、神ご自身があなたに賞賛を与え、あなたのために天においてあなたの住まいとあなたの受け取る宝を用意してくださるのです。

2008年5月18日
黙示録3:14−22節
 
今日は、連続して学んでいますルカの福音書を離れ、「信仰の試練」というテーマで説教を進めていきたいと思います。
まず最初に、黙示録3章14〜22節をお読みいたします。
 
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
 
ラオデキヤと言う町は、今のトルコの中にあった町です。
この町の教会、つまりクリスチャンたちに送られたメッセージが今お読みしたところです。
この黙示録には、他にも今のトルコにあった七つの町の教会が出てきます。
それぞれの町の教会、つまりクリスチャンたちは異なった性質を持っていました。
その中でも、このラオデキヤのクリスチャンたちは、はっきり言ってほめられたクリスチャンではなかったようです。
 
クリスチャンというのは、教会に行っている人のことではありません。また、バプテスマ(他の教会では洗礼と呼びますが・・・)を受けている人がクリスチャンではありません。
クリスチャンとは、神の前に自分の罪を認め、それを悔い改めて、神を信じ、神の救い主である主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたと信じ、告白した人たちのことです。
ですから、たとえバプテスマを受けていなくても、その信仰を持っていればその人はクリスチャンです。
逆に、バプテスマを受けていても、それを信じない人はクリスチャンではありません。
聖書の中に、「人は上辺を見るが、神は心を見る」と書かれています。ですから、上辺ではなく、心で何を信じているかが大切なのです。
 
しかし、そうした信仰を持ったクリスチャンであっても、皆が一律ではありません。
このラオデキヤの教会にも見られるように、ほめられない態度のクリスチャンたちがいるのも確かです。
そして、問題なのは、自分たちがそうしたほめられないクリスチャンであることに気が付いていないと言うことです。
私たちは人のことはよく見えるのに、自分のことには気が付かないことが多くあります。
ですから、私たちは人から指摘される言葉を素直に受け止めていかなければなりませんが、ほとんどの場合、他人の指摘には耳を貸さず、かえって反論し、指摘した相手を憎んでしまうものです。
神は、しばしば私たちの問題点を指摘されます。ある時はあなたに試練を与えて、それを示されます。私たちはそれを信仰によって受け止め、神に向かって歩いていかなければなりません。
しかし、どうしたことか、試練に遭うと信仰が弱り、神を批判し、神や教会から離れてしまう人がいます。
試練には色々な程度があります。しかし、神を批判し、信仰を捨てたからと言って、問題が解決されるわけでもなく、試練の理由を知るわけでもありません。試練の時に神に向かうとき、私たちは本当の解決と試練の意味を知ることができるのです。ですから、どうか皆さん、試練に遭ったからと言って神から離れることのないようにしてほしいと願います。
 
さて、試練を通して神は私たちに語りかけ、私たちの直さなければならないところを気づかせてくださいます。十字架で私たちのために死んでくださったことも神の愛であれば、試練もまた神の愛なのです。
18〜19節をご覧ください。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 
ここで言う、火とは何でしょうか。それは試練です。精錬された金とは何でしょうか。それは試練を通して鍛え上げられたクリスチャンの姿です。
神はラオデキヤの人たちに、お金で様々なものを買う前に、神からの試練を通して、自分たちの不足している部分、直さなければならない部分を神から教えられて、この世で富んだ者ではなく、神の前に富んだ者となりなさいとメッセージを送られたのです。
第1ペテロ1章7節にはこう書かれています。
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
だから、ヤコブ書1章2〜4節ではこう教えるのです。
1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
 
先週の金曜日、国(内閣府)が成人男女の2割が「本気で自殺を考えたことがある」と発表しました。
また、自殺を考えた時に「相談したことはない」と答えた人が60%ありました。つまり、一人で悩むケースが多いと言うことです。
具体的には、「悩みやつらい気持ちを受け止めてくれる人がいない」という理由が多く、周囲に支えになってくれる人が少ないということが浮き彫りになりました。
私たちの日本は、数年前まで世界一の経済大国でした。給料も世界一になり、ある日本人は海外の有名なお城を買ったり、絵画や高級なワインを買いあさったりしました。人々は国内旅行に飽き、海外旅行へ出かけていきました。しかし、今は下へ下へと落ちる一方です。そして、あらゆる方面で何をやっても出口が見えないという閉塞感が漂っています。政治もそうですが、経済も同じです。農業も、そして教会も閉塞感を感じています。
つまり、だれもかれも希望を持つことがない状態になってしまっていると言うことです。
しかし、私たちはこのことを神からの試練と受け止めて、今、神は私たちに何を語りかけ、私たちは何を直していかなければならないのかを気が付いていかなければならないと思います。
特に私たちクリスチャンは、神を知る者として、世の中の人以上に、この神のメッセージを聞き分けなければなりません。
人は成功し頂点に達すると自信にみなぎり、何をしても成功すると思ってしまいます。そしていつの間にか自分自身を特別な存在だと勘違いしてしまいます。そのようになると、できない人に対して自分と同じようになることを求め強いるようになります。
以前の日本はそのような状態だったと思います。しかし今は多くの人が自分自身に力がないと感じるようになってきています。私はそれが日本に与えられた回心する良い機会であると思います。
教会も今の時代、閉塞感に支配されています。しかし、閉塞感に悩まされている時ではなく、むしろこの試練の時を神からの福音宣教の機会として捉え、悔い改めと神への献身を持って神に仕えていかなければならないと思っています。
 
さて、私たちは本当に満足のいくクリスチャンでしょうか?
私たちの教会は100%、神の御心にかなった教会になっているでしょうか?
悔い改めなければならないところはないでしょうか?
ラオデキヤのクリスチャンたちは、経済的な豊かさの中で、なまぬるく、熱くも冷たくもない状態になり、本当は、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることに気が付いていませんでした。
私たち日本に暮らすクリスチャンたちはどうでしょうか?
あなたはどうでしょうか?
なまぬるく、熱くも冷たくもなく、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者ではないでしょうか?
世の中に出ると、クリスチャンなのかクリスチャンではない人なのか区別のつかないような生き方をしてはいませんか?
聖書はあなたに勝利を与えられたと教えています。それなのに、どこかにクリスチャンとしての後ろめたさを感じたり、敗北感を感じたりして、自分をみじめなクリスチャンだと思ってはいませんか?
またそうした敗北感とは逆に、自分は色々と勉強をし、経験も積み多くの知識を持っている。自分は他の人のように失敗はしない。間違えを犯さない。賢い人間だと勘違いし、盲目で裸の者になってはいませんか?
ラオデキヤの人たちはそうでした。
そうしたあなたに対し、神は試練を通してその過ちを指摘し、あなたを火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊い者としてくださるのです。
そして、その輝けるあなたを通して、神はこの世の人たちに、神の与えてくださる希望がどんなに優れたものであるのかを伝えられるのです。
 
試練を乗り越えた人の証は、人々に勇気と力を与えます。
皆さんはポール・ポッツというイギリスのオペラ歌手をご存知でしょうか。彼は先月末に日本に来日し、日本での初公演を行いました。
彼がクリスチャンかどうかは分かりません。ですから、クリスチャンの証としてではなく、試練を乗り越えた人の物語として紹介したいと思います。
ポール・ポッツは36才のしがない携帯電話の販売員でした。
彼は少年の頃から教会の聖歌隊で歌い、そのことが、彼が歌を好きになったきっかけでした。
しかし、学校でいじめられた彼は、徐々に自分自身に自信をなくし、いじめられるといつも一人で歌を歌っていました。彼はインタビューで、「歌声がいつも自分の親友で、気持ちが沈んでいるとき、いつも自分の歌声が支えになっていました。自分はいつもはみだしっ子で、そのことが自分が自信を失っていった理由かもしれません。しかし、歌っているときだけはそんなことはどうでも良くなります。自分の居場所にいるという感じです。」と答えています。
そんな彼が、オペラに魅了され、また自費でイタリアへオペラの勉強に行き、帰国後は幾つかのオペラにアマチュアとして無給で出演していました。彼が自費でオペラにつぎ込んだ額は4千万円と言われています。それほどに歌うことが生き甲斐だったのでしょう。
しかし、それを断念しなければいけない事柄は起こります。彼は交通事故で鎖骨を骨折し、そのため舞台から離れ、オペラから遠ざかり、携帯電話の販売員を仕事にしていました。
そんな彼は昨年、イギリスのオーディション番組に挑戦しました。
よれよれのスーツを着てステージに立った彼は、劣等感に支配され、審査員を前に自信なさげな表情を浮かべていました。そんな彼に審査員たちは何の期待も持たず、彼にオペラなど歌えるのかと疑っていました。
ところが、歌を歌い始めると彼の表情は一変し、堂々と、「誰も寝てはならぬNessun dorma(ネッスンドルマ)」という曲を熱唱したのです。審査員たちの表情も一変。呆然と彼の歌に聴き入ってしまいました。
観客の中には涙を流す人もあり、スタンディングオベーションで彼に拍手を送りました。
「誰も寝てはならぬNessun dorma(ネッスンドルマ)」という曲は、昨年亡くなったイタリアのテノール歌手ルチアーノ・パバロッティで有名です。パバロッティの歌と聞き比べると、ポール・ポッツの歌は荒削りで、肩を並べられるものではないかと思いますが、しかし、ポール・ポッツの歌にはどこかに生きる力を感じます。それは彼のこれまでの生涯が彼の歌の背景にあるからなのでしょう。
こうして彼はこのオーディション番組の初代チャンピオンに選ばれ、CDデビューし、一躍、携帯電話の販売員から世界を巡って歌うオペラ歌手になりました。
私は彼に、いつまでも初心を忘れず、謙虚さを失わないでほしいと願っています。なぜなら、時に成功は人を高慢にし、せっかく得た栄光と輝きを失わせ、また、過去に体験した苦しい経験を忘れさせてしまうからです。
 
さて、彼にとっての親友は彼の歌声でした。
私たちにとっての親友は誰でしょうか。それは主イエス・キリストです。
主イエス・キリストはあなたの支えになってくれます。
あなたはポール・ポッツのようにはみだしっ子かもしれません。自分自身に自信を失っているかもしれません。しかし、彼が歌を歌っているとき、そんなことはどうでも良くなり、そこが自分の居場所になったように、あなたが主イエス・キリストを愛し、そして思い浮かべるとき、そこはあなたにとって天国のように居心地の良いところとなります。あなたがたとえ嵐や試練の中にいてもです。
そして、その嵐が過ぎたとき、あなたは輝くことができるのです。そしてその輝きは、多くの人々に希望と勇気を与えるのです。
そのためにも、私たちは試練を前にして挫けてはいけません。私たちは神に頼り、主イエス・キリストにすがって、この試練を乗り越えていきましょう。そして、生きる希望を失い、自ら死を選ぼうとしている人たちに、神の福音を届けていきましょう。
最後にもう一度、第1ペテロ1章7節を読んで終わりに致します。
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

2008年5月11日
ルカの福音書 3章1節〜18節
 
今日は母の日です。
母の日の起源は、1907年にアメリカでアンナ・ジャービスという女性が、日曜学校の教師をしていた亡き母を偲んで、教会で記念会を持ったことが始まりでしたが、それ以前にも、母親に関する日はありました。
イギリスでは17世紀に「Mother's day」「Mothering Sunday」と呼んで、母親の元を離れて丁稚奉公に出された子ども達が年に一度、教会で母親と面会出来る日がありました。
また、1870年には、アメリカ女性活動家で、アメリカ愛国歌「リパブリック讃歌」の作詞者でもあるジュリア・ウォード・ハウという人が、夫や子どもを戦場に送るのを拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」をしました。
また、同じくアメリカの女性活動家でアン・ジャービスという人が、南北戦争中に「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させ奉仕しました。
このアン・ジャービスの娘が今の母の日のきっかけとなったアンナ・ジャービスです。
昔から「母は強し」と言われますが、歴史を通しても、母親たちの勇敢さを知ることができます。
 
さて、今日は、特に母の日に関する説教は致しませんが、来月の父の日には、「家族を考える日」としてウェルカムデーを催しますので、ぜひお友達などを誘ってお集まりいただきたいと思います。
 
それでは、今日はルカの福音書3章1〜18節をお読みして、ここから説教をしていきたいと思います。
 
3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
3:11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
3:12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
3:15 民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
3:18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
 
まず最初に、時代背景を見ていきましょう。3章1〜2節に
先週学んだ12才の少年イエスがエルサレムに行ってから約20年あまりたった頃のことで、バプテスマのヨハネも、そして主イエスも30代になっていました。
この頃の様子を知る手がかりとして、特にアンナスとカヤパが大祭司であったころという記録は、大切です。というのは、この二人の時代に、ただでさえ世俗的になっていた大祭司職がさらに世俗化を加速していったからです。
主イエスが12才だった頃にアンナスは大祭司職に任命されます。しかし、このアンナスは野心的で欲深い悪名高い人物でした。
この頃の大祭司職はローマ帝国によって任命されていました。アンナスはその任命を受けるために、ローマに色々と働きをしたようです。しかし、テベリオがローマ皇帝になったとほぼ同じ頃、アンナスは解任されます。しかし、後に彼の娘婿が大祭司に任命されますが、アンナスは事実上ユダヤ教の祭司職の頂点に君臨し、権力と財力を掌握していきました。 そして、それによって得た地位と権力によって莫大な富を築いていきました。有名なのが、主イエスによってテーブルがひっくり返された、神殿での商売です。神殿で捧げるいけにえ等に規制を設け、十倍以上の値を付けて、その収益の一部をアンナスとカヤパが手にしていました。
そのような時代に、バプテスマのヨハネが登場し、そして主イエスの活動が始まったのです。
 
この3章に記されている出来事から遡ることおよそ35年前。ザカリヤとエリザベツという年老いた夫婦に待望の子供が与えられました。それがバプテスマのヨハネでした。
彼はヨルダン川のほとりに立って、人々に、罪の悔い改めを促すメッセージを語りました。
ルカは彼を、旧約聖書のイザヤ書40章で約束された預言者であると紹介しています。
 
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
 
この言葉はバプテスマのヨハネを指して800年前のイザヤが語った言葉ですが、不思議なことに、この言葉はこの時代のローマ帝国を思い起こさせます。
ローマ帝国は国を安定させるために、支配した国々を結ぶ道路を整備していきました。
それは、最前線など、ローマから遠く離れたところで発生した有事に、すばやく対応し軍隊を送り込むためのものでした。いわゆる軍用道路です。
そのために彼らはできる限りまっすぐな道を作りました。谷を埋め、山を削って道は作られました。
そしてその道は使われました。軍隊を送るためではなく、主イエス・キリストの福音を運ぶ道として用いられたのです。あらゆる国の人たちが、神の救いを見るようになるためです。事実、この道路整備のおかげでパウロをはじめ主イエス・キリストの弟子たちは、広く福音を伝えることができました。
 
こうして、神は一人の預言者をこの時代に使わし、そして、彼によって悔い改めのメッセージが語られることを約束していたのです。
ヨハネの次のように語りました。7〜9節をご覧ください。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
バプテスマのヨハネが語ったメッセージとは、悔い改めと、悔い改めにふさわしい実を結ぶことでした。
悔い改めというのは、ただ犯した罪を悲しむことではありません。
コリント人への手紙第二の7章9〜10節にこう書かれています。
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 
私たちは毎日のように悔い改めます。夜になると、「神様、私が起こしてしまった今日一日の罪をどうかお赦しください。」と祈ります。しかし、悲しむだけが悔い改めではありません。悔い改めはそれにふさわしい実を結ぶのです。
私たちの罪や過ちは、それを悔い改めることによって赦されます。しかし、神は私たちに悔い改めと同時にその結果を求めておられます。
 
取税人でザアカイという人がいました。
彼は主イエス・キリストに出会ったときに、何も求められていないにもかかわらず、自ら、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 と約束しました。
ザアカイは主イエスから何かを求められたわけではありませんでした。
主イエスがかけられた言葉といえば、「ザアカイよ、木から降りてきなさい。今日、あなたの家に行くことにしてあります。」という言葉だけでした。その言葉だけでザアカイは回心し、悔い改めた結果として、貧しい人に財産の半分を、だまし取った人たちには四倍にして返しますという言葉が出たのです。
そのザアカイに対して、主イエス・キリストは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」と言われました。
 
アブラハムの子孫、アブラハムの子というのは、分かりやすく言うと、神に約束された救われた人のことです。
では、どのような人がアブラハムの子孫、アブラハムの子でしょうか。
それは、悔い改めにふさわしい実を結ぶ人のことです。
それでは、神はどのような実を求めておられるのでしょうか?
 
群衆は質問しました。
「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
ヨハネ答えました。
「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」
下着は、今のアンダーウェアーのことではなく、一般に人々が着る衣服のことで、上着というのは寝るときに寒さをしのぐために羽織ることができる布のようなものでした。ですから、下着を一枚も持たないものとは、裸同然の貧しさの中にあるもののことを表します。
群衆の中にはそのような人もいたことでしょう。自分自身は神の憐れみを請いながら、隣にいる貧しい人に憐れみを施さないという矛盾を、神は示したのです。
 
取税人たちも質問しました。
「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
ヨハネは彼らにも答えました。
「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
彼らは不正をなしていました。神はそれを止めるようにと求めただけです。
 
また、兵士たちも質問しました。
「私たちはどうすればよいのでしょうか。」
ヨハネは兵士たちにも答えました。
「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
彼らは権力を傘に、上からのストレスを下の者、弱い者に向け、また賄賂を求めたりしていました。神はそれを止めるように求めただけです。
 
神は私たちに、ザアカイが行ったような、財産の半分を貧しい人に分け与えることを求めてはおられません。神は私たちに当たり前の平和で正直な生活を求めておられるだけです。
 
そして何よりも、神は悔い改めの実として求めておられるのが、信仰です。
その信仰とは、神が私たちを救うために救い主を遣わし、私たちの罪のために死なれ、そしてよみがえられたと言うことを信じることです。
それは難しいことでしょうか?
神はあなたに、あなたの罪のためにあなたの体を傷つけることや捧げることを求めてはおられません。それらはすべて神と主イエス・キリストがなしてくださいました。あなたがなすべきことは、その神の贈り物を感謝して受け取ることです。それが悔い改めの実です。
 
私たちは多くの罪を犯します。しかし、私たちはその罪を誰に犯しているのか、また、誰に悔い改めるのかを知らなければなりません。
私たちは神に罪を犯しているのです。ですから、本当に悔い改める者は、まず神のところに行かなければなりません。つまり、神の存在を信じ、神に罪を犯したことを認めることが悔い改めの始まりです。
神を信じることなく、ただ自分のうちで犯した過ちを悲しんで、もう二度と同じ過ちを犯さないと決意することは悔い改めとは違います。それは、結局は神の力に頼らず、自分の力で何とか克服しようとし、そして同じ過ちを犯させ、また克服できたとしてもかえて神から遠ざかり、また別の罪を犯すようになるのです。
真の悔い改めは実を結びます。神の存在を信じ、神に罪を告白するという実を結びます。そしてそうした悔い改めは、さらに救いと命という実を結ばせてくれるのです。
さて、あなたは真の悔い改めをしていますか?
そして、あなたは今、何を悔い改めますか?何を悔い改めなければなりませんか?
私たちは自分が実りの少ない者と嘆く前に、自分の罪や過ちをはっきりと神に告白し、神の力によって変えられていくように祈り求めていきましょう。
神があなたを取り扱われ、悔い改めるべき事を示してくださり、あなたが変えられて多くの良き実を結ぶものとしてくださいます。

2008年5月4日
ルカの福音書 2章41節〜52節

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。


イタリアにACミランというサッカーチームがあります。
今、このチームは若返りを目指そうと新しいチーム・リーダーを必要としています。
その中でブラジル人のカカという選手が注目されています。
世界のサッカーは、今やブラジル人がいなければおもしろさが半減してしまうほど、ブラジル人プレーヤーの活躍が目立ちます。ただ、問題もあるそうです。それは個性の強い選手がチームに加わって来た場合、調和を保つと言うことが難しいということです。
そのような事情の中で、ACミランのカカは選手としても優れ、人格的にも魅力のある選手として尊敬を集めています。その一つの理由は、彼が熱心でまじめなクリスチャンだからです。
サッカー選手として、サッカーの技術を磨くことは非常に大切なことです。しかし、どんなに技術が優れていても、サッカーはチームで行うスポーツなので調和が必要です。ですから、調和をとることができない選手は、チームにとって迷惑となり、戦力を失う原因となってしまいます。
ですから、技術もあり、チームの調和もとれるカカは、「世界の中で自由に選手を獲得できるとしたらカカを選ぶ」と言われています。
そんなカカという選手にクリスチャンとして注目していきたいと思っていますが、このようにチームにとって必要なのは技術だけでなく調和を保つことの出来るモラルも必要です。そして、そのことは私たちの教育にも言えることです。

学力を身に付けると言うことはとても大切なことです。より多くの知識を学び、技術を磨く努力はとても必要なことです。
私たちの暮らすこの日本は、最近、学力が落ちたと言われていますが、それでも高い学力と技術を持っています。ところが、学力以上に落ち込みが目立っているのはモラルです。これまでの日本は技術だけでなくモラルも高く、それが社会の調和を保ち、生産性も上げてきました。しかし、モラルの低下により効率の悪い社会に変わってきています。
たとえば、学校の給食費の問題ですが、支払う能力があるのに支払わない世帯が増えています。家は立派で高級車に乗っているのに、小中学校は義務教育だから給食費を払う必要はないと、訳の分からないことを言って支払いを拒否している人がいます。それによって、学校の先生たちは授業以外に時間を取られることが増えています。
年金等の問題も、国が責任を持ってお金を管理していれば、余分な労力や経費をかけて調査する必要がなかったわけです。ところがモラルがなかったことにより大きな問題となっています。
私は今の日本に一番必要なのは年金や健康保険ではなく、まず第一は福音ですが、その次に必要なことは教育だと思っています。その教育も国語や数学や英語と言った教養ではなく、道徳とか思いやりと言ったことを教育が必要だと思っています。親切や正しい行いにはみんなでそれを評価しほめていき、不正や自分勝手な行いはみんなで取り除いていくという道徳教育が必要だと思っています。
そして、その道徳教育のために必要であり力を発揮するのが教会なのです。残念なのが、日本の社会は教会に目が向いていません。その重要性に気が付いていないと言うことです。皆さんはどうですか?
子供にとって学校教育以上に、教会での教育が大切だと認識しているでしょうか。

さて、目を聖書に向けていきたいと思います。
まず、ルカの福音書2章41〜42をご覧ください。
「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、」とあります。
主イエスの両親は、毎年のようにエルサレムに上っていたようです。
イスラエルには年に三回の大きな祭りがありましたが、過越の祭りはその一つで、今でも大切に守られています。
これらの祭りは、神の命令を守るだけでなく、子供たちの教育の場所でもありました。特にイスラエルでは13才からが成人のため、12才の少年にとっては大人への仲間入りを果たすためにも重要だったと思います。
イスラエルでは幼少の時から、聖書(特にトーラーと呼ばれる律法)が教えられました。それが教育の中心でした。そして13才になると「バル・ミツワ(律法の子)」と呼ばれ、ユダヤ教の律法の教えに習熟し、その教えに責任を持って従って生きる年齢に達した者とされました。つまり、一人前として扱われるようになり、自分の言動には自分で責任を取らなければならなくなります。また、これからは自分の力と意思でエルサレムへの巡礼をするようになります。

ですから、12才というのは両親に連れられて行く最後のエルサレム巡礼だったのではないでしょうか。
そして、その時に起こったハプニングが、2章43節以降の記事であります。
祭りを終えてナザレに戻っていたヨセフとマリヤは、一行の中にイエスがいないことに気が付きます。
一日の道のりを歩いて宿泊しようとした時だったのでしょう。彼らは慌ててエルサレムに戻り、三日後にイエスを見つけました。
気が付いたのが一日の道のりを歩いた後だったと言うことなので、戻るのに丸一日、そして二日間もエルサレム中を探しまわったわけです。ヨセフとマリヤはさぞ心配し、必死だったでしょう。
その様子を物語る言葉として、イエスを見つけたときにマリヤが発した言葉が記されています。
48節をご覧ください。
「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
当然といえば当然でしょう。両親の心配をよそに、当の本人は平気な顔で大人たちを相手に話したり質問したりしていたからです。
ところが、イエスの答えは「ごめんなさい」ではありませんでした。
49節をご覧ください。
「するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。」

自分の父の家とはどこのことなのでしょうか。ナザレにある父ヨセフと暮らす家のことではないようです。イエスの本当の父はエルサレムに住んでいたのでしょうか?
いいえ、ここで言う「父」とは、神のことです。
日本語の聖書では「父の家」とありますが、もとのギリシャ語聖書には「家」という言葉はありません。
直訳すると、「私の父のことの中に」となります。言い替えると、「私は父のものとしてそこにいます。」
つまり、父なる神と一体感を表しているのです。
それは、ほかの聖書の中でも感じることが出来ます。ヨハネの福音書5章17〜23節をご覧ください。

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。


人としてこの世に生まれ、ヨセフとマリヤの子として育てられた主イエスの本当のお姿は神でした。私たちを罪から救うために神が人となって来てくださり、メシア=キリスト=救い主となってくださったのが主イエスです。父なる神と主イエス・キリストとは常に一つで、常に共に働かれていたのです。ですから、主イエスの「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」という両親への応えは決して不思議なことや疑問を感じることではなく、ごく自然のことでした。

聖書は次のように話します。ヨハネの福音書1章18節。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

どのように神を解き明かされたのでしょうか?同じヨハネの福音書14章7〜9節をご覧ください。

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

またもう一カ所開きましょう。ヘブル人への手紙1章3節。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」

私たちは目に見ることの出来ない神を見ることは出来ません。しかし、私たちは人間と同じように肉体を持って来られた主イエス・キリストを通して、神を見、神を知ることが出来るのです。ですから、私たちはますますこの主イエス・キリストについて学んでいかなければなりません。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が愛の方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が憐れみ深い方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が常に私たちの隣にいてくださることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちのために多くの犠牲を払ってくださる方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちのために命をも投げ出してくださる方であることがわかります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちに命を与えてくださる方であることが分かります。

さて、お話をまとめたいと思います。
私たちには教育は必要です。どんな教育が必要でしょうか。それは神に学ぶという教育です。
できれば、それは幼少のうちより行うことが出来れば幸いでしょう。
子供は年と共に親から自立していきます。その時に、子供が何を基準に自立していくかということはとても大切なことだからです。
また、大人にとっても教育は大切です。掛川は生涯学習の町ですが、私たちは生涯にわたって聖書から学ぶことが大切です。大人になると人は変わり難くなります。自分自身を変えたいと思いつつも何度も挫折します。しかし、水をぶどう酒に変えられる神は、私たちをも造りかえてくださいます。御言葉を通し、神はあなたに力と約束と信仰を与えてくださり、あなたを変えてくださいます。
それはあなた自身だけのことにとどまりません。私たちは人間関係において、多くのトラブルをかかえます。時にはそのために自分だけでなく相手の人が変わってほしいと思うでしょう。また、あの人はいくら言ってもダメだとあきらめてしまうことがあるでしょう。しかし、私たちには出来ないことも神にはできるのです。そのように、神は私たちに希望と期待を与えることが出来るのです。そして何よりも、人を赦すことの出来ない私たちの心に、人を赦しことのできる心を造ってくださるのです。
そのようにして、神は私たちを造りかえてくださり、主イエスが神と人とに愛される方であったように、私たちもそのようにされていくのです。