さて、今回のテーマは、「輝いていますか?」です。
とても明るいイメージのテーマですが、その前に、皆さんは自分自身が輝く必要があると思っていらっしゃるでしょうか。それとも、自分など輝く必要なんかないとお考えでしょうか。
今、私たちの国日本が抱えている問題は、一人一人が、「輝こう!」と言う気持ちや意思がなくなり、気持ちが内側に向いてしまっていることです。
輝くと言うことは、それは自分の外側のものを照らすと言うことです。しかし、最近は「自分をほめてあげたい」とか「自分にご褒美」と言う言葉でも分かるように、自分で自分を照らそうとしています。
聖書を一箇所お読みいたします。新約聖書・マタイの福音書5章14〜16節
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
私自身が輝いているかどうか、世界の光となっているかどうかと問われると、なかなか「はい」とは言える自信はありません。ただ、常にそうありたいとは思っています。皆さんはどうでしょうか?
どうしたら人は輝くことができるのでしょうか? どのような人が輝いている人でしょうか?
まず、一つの例話をお話ししたいと思います。
ちょうど1ヶ月前の4月26日の事です。アメリカ・オレゴン州で女子大生によるソフトボールの決勝戦が行われました。ウエスタン・オレゴン大学とセントラル・ワシントン大学との対戦でした。
両チームとも初めての決勝戦という大事な試合で、サラという選手が3ラン・ホームランを打ちました。
ところが1塁をまわったところで彼女に悲劇が起こります。ヒザの靱帯を損傷してしまい動けなくなったのです。
ルールでは、チームメイトが助けたり選手交代した場合、ホームランは無効になってしまいます。
試合は0−0のまま白熱していました。その時に放ったサラのホームランはチームが優勝を決める大切なものでした。それだけにこのホームランは、卒業前の最後の舞台で彼女がヒーローになれた瞬間だったわけです。しかも、そのホームランは彼女にとって初めてのホームランだったのです。
興奮いっぱいに走る彼女は、1塁を踏み外しひざが故障してしまい、崩れるように倒れてしまいました。彼女はなんとか走ろうとしますが、1mも動けない状態でした。
審判は次のように提案しました。「ルール上、残された選択肢は彼女を別の選手と交代させ、ホームランではなく、ヒットと記録する事だけです。」コーチは「わかりました」と告げました。
ところが、そのどうすることもできない状況の中で、奇跡が起こったのです。
相手チームのマロリーとリズという二人の選手がサラの元に駆け寄り、サラを抱きかかえて累を回ったのです。相手チームの選手が手を貸すことは問題なかったからです。
サラを手助けした一人のマロリー自身、ひざを故障し、この試合後に手術を受けることになっていました。そんな彼女は、1塁ベース上で倒れながらも何とか前へ進もうとしているサラの気持ちが自分のことのように分かったのです。
こうして、3人はそろってホームベースにたどり着きました。そして、球場には大きな歓声と拍手が鳴り響きました。
勝負に勝ち負けは大切なものです。しかし、勝敗よりも大きなものがあると言うことを、彼女たちは示してくれました。
私たちは常に損か得かを計算しています。しかし、その多くがお金が儲かるか節約できるかということであったり、自分の地位や立場が保たれるかどうかなど、自分を中心にした損得勘定です。
そのような勘定をしている私たちは、お金や物、地位や立場よりも大切なものを捨ててしまっています。
私の家内は福岡県の出身です。そこへ帰省するためには多くの旅費が必要になります。
ある夏休みに、家内は小学一年になる末娘を伴って新幹線で帰省することになりました。当然、私たちは大人のキップ一枚と子供のキップ一枚を購入しました。ところが、井戸端会議の中で費用の話になったとき、どうして幼児で乗っていかなかったのかと言われてしまいました
どうして不正をした人がほめられ、正直に生きた人が愚かだと評価されるのでしょうか。
先日、掛川に新しくオープンしたレストランへ行きました。そこにはサラダバーというサービスがあって、メタボリックの私は、ランチにそのサラダバーだけを食べて、野菜不足を補おうと考えたからです。
サラダバーは別に注文しなければ取ってはいけません。また、そこにはスープバーやドリンクバーがありますが、それらも一つずつ注文しなければなりません。
ところがです。何人もの人がスープバーにあるコーンスープに、サラダバーのコーンを入れていくではありませんか。それはしてはいけないことです。しかし、当たり前のように何人もの人が同じ行為をしていました。また、サラダバーにはフルーツなどのデザートがありましたが、ドリンクバーのカップに、それらを入れていく人も見かけました。
なんと多くの人が、金銭や物質的な得を得るために、正直さを失っていることでしょうか。
正直というのは自分にとって得なものではないのでしょうか。
ある人は、交通事故を起こしたときに「ごめんなさい」と謝ると不利になると思い、自分が100%過失があるのに謝罪しない場合があります。
だれがそのようなデマを流したのか分かりませんが、法律においても、また保険においても、謝罪をした方が責任が重くなることはありません。むしろ、加害者が謝らなかったことでその後の示談交渉がもつれる場合があるそうです。ですから、交通事故を起こした場合は、まずお互いの身体を案ずることが望ましいわけです。
このように、私たちは自分が損になると思うと、謝ることすらしなくなります。
ですから、私自身は、自分が悪くない場合でも、先に「ゴメンナサイ」と謝るように心がけています。実はその方が人の心が見えてくるのです。こちらが先に「ゴメンナサイ」と謝って、相手が「いえ、いえ、こちらも悪かったです」などと言ってくる人とは、これからも良い付き合いができますが、こちらが謝っても当然という顔をされたり、無視される方とは、今後の付き合いは難しくなります。
さて、例話が長くなりましたが、今の日本に輝きがなくなってきているのは、国が悪いからではありません。私たち国民一人一人が輝きをなくしているからなのです。
なぜ輝きをなくしてしまっているのでしょうか。それは、自らが輝いて周りを照らそうという気持ちが薄れ、自分で自分を照らそうとしているからです。つまり、自分の得になることを求めすぎているからです。
最近は株などに投資して、自分の資産を増やそうとしている人が多くなりましたが、儲かる人がいると言うことはどこかで損をしている人たちがいると言うことを知らなければなりません。自分が得をするということは、どこかで泣いている人がいるということを考えないといけません。
皆さんはチョコレートが好きでしょうか。チョコレートは何からできていますか。カカオと砂糖が原料です。カカオはどこで生産されているかご存知でしょうか。ガーナやコートジボワールなどアフリカ諸国が主な生産国です。このコートジボワールのカカオ畑の労働者は隣国から移住してきた子供たちが、奴隷のような状態で働かされています。この子供たちはチョコレートを食べたことも見たこともありません。
そうした状態を私たちがどうこうできるわけではありません。私たちの灯すことのできる光は強くはなく、遠く離れた国々にまで影響を与えることはできませんが、しかし、自分の家や周囲の人を照らす光くらいは持つことができます。
もし、私たちが自分に得になることを求めれば求めるほど、自分の心も周りの人の心も暗くなっていきます。しかし、私たちがたとえ損をしても他の人の得になることをすれば、それによって私たちの家は明るくなり、周囲の人も明るくされます。
最初にお話ししたソフトボール大会のお話ですが、ホームランを打ったサラを助けた相手チームは2×4で負け地区優勝を逃してしまいました。しかし、この明るい話題はアメリカ全土で知られることとなり、マロンとリズはテレビ番組等で取り上げられることになりました。
私は、このような明るい話題を日本のメディアももっと取り上げてほしいと思っています。つまり、自分を犠牲にして人を助けるという行為をもっとほめる習慣があっても良いと思っています。
さて、皆さんはどのような生き方をされておられるでしょうか?自分の得になることには一生懸命になり、逆に損になることには目くじらを立てて反論してはいませんか。
最近、モンスターペアレントとかモンスターハズバンドなどと、なんでもモンスターと付ける傾向がありますが、これらの共通点は、周りが非常識と思われることでも、自分に不利益だと思うと抗議する人のことです。この人たちは自分たちが自己中心的な要求、理不尽な要求をしていることに気が付いていません。もしかしたら、私たちは気が付かないだけで、同じようにモンスターになっているかもしれません。
もう一度、新約聖書・マタイの福音書5章14〜16節を見ましょう。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
どのようにしたら私たちは家庭の光、地域の光、学校の光、職場の光、世界の光になれるのでしょうか。
私たちが輝くためには、まず私たち自身が、求めるものを変えていかなければなりません。
同じマタイの福音書6章25〜34節をご覧ください。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
私たちは、あまりにも自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配し過ぎていると聖書は教えます。また、からだのことで、何を着ようかと心配し過ぎたりしていると教えています。
お昼のワイドショーで、司会者の方が健康に良いと言って取り上げたものが、その日のスーパーで飛ぶように売れると言われています。
先日も、北海道の評判になっている生キャラメルという商品が、期間限定でローソンというコンビニで売られているとテレビで報じたところ、その直後にお客さんが殺到し、あっという間にその商品は売り切れてしまいました。
そのように、最近ではテレビなどを通して情報があふれています。そして、「あの商品が健康に良い」とか、「今の人は○○が不足しています。」といわれると、人々は敏感に反応するようになっています。
もちろん、私たちにとって健康は大切ですが、しかし、あまりにもそちらに関心が行きすぎてしまっています。
しかし、聖書は私たちに、からだよりもいのちの方が大切ですよと教えます。
ある人は、「いのちが大切だから健康を気にするんだ!」というでしょう。
しかし、聖書はいのちは私たちが維持しているのではないことを教えます。
いのちは神が与えているもので、人は自分のいのちのことで思い煩う前に、いのちを与えてくれている神を求めなさいと教えています。
聖書の別の箇所では、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。また、「あなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」と教えています。つまり、第一に神、その次にあなたの隣り人を・・・と教えています。
しかし、実際はどうでしょうか。第一に自分のこと、隣り人や他人のことは自分に余裕が出てきたら気にかけよう。えっ、神のこと・・・。神のことを考えておなかが満たされるの?何か自分に得になるの?と言う人がほとんどです。
このように、人々は自分の得になることには関心はあっても、いのちの源である神には無関心です。そのために人々からはどんどんと輝きが失われているのです。
私たちは考えを改めなければなりません。
私たちがいのちを与えられている理由は、自分のために生きるためではありません。私たちは神のために生きる者としていのちを与えられたというのが聖書の教えです。
そして、その聖書の教える神とは、私たちのために多くの恵みと犠牲を持って、私たちを支えてくださる方です。
ヨハネの福音書3章16節をお読みいたします。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
もう一箇所、お読みいたします。ヨハネの手紙4章10〜11節。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
今からおよそ2000年前、イエス・キリストは十字架で張り付けにされて殺されました。それは一見、当時の人々によって強制的に処刑されたかのようですが、実は、イエス・キリスト自らが十字架で張り付けになったのです。
神は私たちの自己中心の罪など、私たちから輝きを失わせている罪と呼ばれる心の悪を、神のひとり子であるイエス・キリストに背負わされ、イエス・キリストは私たちの身代わりに罰を受けてくださいました。それがイエス・キリストの十字架の意味です。
そのことを通し、神はまず私たちの罪を赦し、私たちを受け入れてくださり、私たちが輝きを取り戻すことができる道を用意してくださったのです。
また、私たちがどのような生き方をすべきかという模範を示してくださったのです。
「輝いていますか?」。私たちは輝かなければなりません。しかし、私たちから輝きを失わせているものが私たちの内にあります。私たちはそれを取り除き、変えられなければなりません。そのことは私たちには不可能なことです。しかし、神はあなたに代わって、あなたの内から罪を取り除き、あなたを内側から変えてくださり、あなたに輝きを取り戻してくださいます。ですから、今のあなたに必要なのは、これまでの生き方・考え方を改め、方向転換してあなたの光である神の方へ向きを変えることです。
これまでの生き方を悔い改めて、神を信じ、神のために生きる者となりませんか。また自分のために光を照らす者ではなく、人々のためにあなたの輝きを照らす者になりませんか。そうするとき、神ご自身があなたに賞賛を与え、あなたのために天においてあなたの住まいとあなたの受け取る宝を用意してくださるのです。