愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
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2008年4月27日
ルカの福音書 2章21節〜40節

[2:21]八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。[2:22]さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。[2:23]それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。[2:24]また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。[2:25]そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。[2:26]また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。[2:27]彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。[2:28]すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。[2:29]「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。[2:30]私の目があなたの御救いを見たからです。[2:31]御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、[2:32]異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」 [2:33]父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。[2:34]また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。[2:35]剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」[2:36]また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、[2:37]その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。[2:38]ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。[2:39]さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。[2:40]幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。

昨日、長野で聖火リレーが行われました。聖火があのように厳戒な警備の中でリレーされているのを初めて見ました。特に目立ったのが中国の国旗で、多くの中国人留学生がつめかけ、この夏に行われる北京オリンピックをアピールしました。
今回の騒動で、私が感じたことは、中国の人たちは非常に愛国心が強いと言うことでした。今の日本人はどちらかというと冷めたところがあって、中国の人たちのように愛国心のために熱くなるということはあまりないと思います。
しかし、愛国心はしばしば自分たちの危機を招きます。気をつけないと今回の北京オリンピックも、その愛国心ゆえにたいへんな事態になってしまうかもしれません。

さて、ユダヤ人たちの愛国心といいましょうか、イスラエル民族としての誇り、独自性も強いものがあると思います。
主イエス・キリストの時代のイスラエルはローマ帝国の支配の中にありました。ローマ帝国は強大な力で多くの国々を支配していきながらも、その国の文化や宗教には寛容なところがあり、それがローマ帝国を拡大させ理由の一つとしてあげられています。
ところが、イスラエル、別名ユダヤですが、そこだけはローマの支配を嫌い、頑強に独立を求め、自分たちのイスラエル民族としての独自性を誇示しようとしていました。それゆえ、大国ローマを相手に戦争となってしまい、西暦70年に国は滅びてしまいました。

話を聖書に戻しますが、ルカが記したこの福音書を通し、私たちは、当時の一般の庶民たちが、しっかりとユダヤ人としての習慣とアイデンティティーを守っていたことを知ることが出来ます。それは、ヨセフとマリヤも例外ではありませんでした。

21節から24節を見ていきたいと思いますが、まず、21節の誕生から8日目に行う割礼ですが、割礼とは男性の性器の包皮を切り取る儀式で、今でもユダヤ人だけでなくイスラム教徒やアフリカなどで行われています。しかし当時は、割礼を受けていることがユダヤ人の証であり、とても大切なことでした。割礼が彼らのアイデンティティーの表れでもあったのです。

次に、22節のきよめの期間が満ちた後の儀式ですが、旧約聖書のレビ記に、男子が産まれた場合は8日目の割礼からさらに33日間、女子が産まれた場合はその倍の66日間は汚れた期間とされています。それが過ぎたときに祭司とのところへ行って、贖いときよめのために、山ばとのつがい、もしくは家ばとのひなが捧げられました。マリヤの場合、男子を生んだので誕生から40日が過ぎた時と言うことです。

もう一つは、幼子を神に捧げるという儀式です。これはいけにえとして捧げてしまうということではなく、また、幼子のすべてに対してそうするのではなく、最初に生まれた男子は特別に神のものであると言うことで、分けるというものです。ですから、長男はほかの兄弟の二倍のものを相続しました。それは長男が特別だからではなく、神にささげられた神に属する者という意味があったからです。

このように、主イエス・キリストは生まれたときから、神がイスラエル民族に与えられた教えと戒めを守られました。それは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストが、一人の人間として生まれられたこと、一人のユダヤ人として生まれられたことの証だったのです。

キリスト教の歴史の中で、しばしば、主イエス・キリストは神なのか人なのかと言うことが論じられてきました。正解は、主イエス・キリストは完全に神であり、完全に人となられたお方と言うことです。

主イエス・キリストの本当のお姿は神でした。しかし、神である方が、私たちを救うために正真正銘の人間として生まれてくださったのです。ゆえに、神である主イエス・キリストは一人の女性から生まれなければならず、またユダヤ人として生まれた者として律法に従わなければなりませんでした。

しかし、普通のユダヤ人の子供としてお生まれになった主イエス・キリストは、単なる人ではありませんでした。そのことを物語るかのように、律法に従ってエルサレムに上った彼らに、二人の老人が近づき、それぞれがこの生まれたばかりの幼子について語ったのです。それがルカの福音書2章25〜40節の内容です。

まずシメオンという老人です。このシメオンについてはこう紹介されています。

[2:25]そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。

聖霊が彼の上にとどまっていたと記されています。
私たちは先々週、聖霊に満たされるとはどのようなことなのかを学びましたが、実に主に期待して生きてきたシメオンは聖霊に満たされた人でした。
シメオンは両親と共にエルサレムを訪れた幼子を腕に抱き語りました。

[2:34]「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。[2:35]剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

聖書には、主イエス・キリストのことを「神の言葉」とも表現しています。神の言葉について聖書はこのように言及しています。
新約聖書・ヘブル人への手紙4章12節

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

実に、当時の人々は、この主イエス・キリストを通してその心があらわにされていきました。神を敬っていると思われていた人々が、本当はそうではなく、非常に心かたくなな者であったことが示されました。
また、主イエス・キリストを通して、自分は正しく、神の教えをしっかり守り行っていると思っていた人が、そうではないことに気づき涙を流しながしながら去っていきました。
ある人は、自分は神に熱心な者であると思い、その思いからクリスチャンたちを迫害しましたが、主イエス・キリストを通してそれが誤りであることが示されてクリスチャンになりました。
また、無学で罪人と呼ばれ、当時の宗教的指導者たちからは嫌われていた人々が、実は純粋で神の憐れみと救いを心から求めていたことが分かりました。

私たちも、主イエス・キリストを通し、本当の自分というものを知っていくことが出来ます。
自分は正しいと思っていたことが間違っていたと示され、自分には罪などないと思っていたことがとんでもない罪人であることが判り、同時に、自分など救われることはないと思っていたけれども、神はそんな自分を心から愛し救ってくださったのだと知るのです。そして、一度は自分には価値などないと思い絶望したけれど、今は神の愛と命の中で新たな価値を見出すことができるのです。
ですから、私たちは信仰のあるなしにかかわらず、この主イエス・キリストについて学び、そして触れていくことはとても大切で必要なことです。

この主イエス・キリストついてシメオンはさらにこう語っています。

[2:32]異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。

主イエス・キリストはユダヤ人のみならず、すべての人の啓示の光、神から遣わされた救い主です。
神は律法と預言者、つまり旧約聖書を通して、あらかじめこの救い主の誕生を示してきました。ゆえに救い主は律法に書かれているとおりにエルサレムに上り、その教えに従われたのです。そしてそのことはユダヤ人だけへのしるしではなく、私たち異邦人に対しても、主イエス・キリストは救い主であるというしるしでもあったのです。

シメオンはその神のしるしを見、神をほめたたえたのです。
女預言者アンナも同じでした。彼女は84才という高齢でしたが、夜も昼も宮を離れず、断食と祈りをもって神に仕えていました。彼女もこの幼い救い主を見、幼子のことを語り、そして神に感謝しました。

今、後期高齢者医療制度の問題をきっかけに、老いる事への問題や不安が、お年寄りだけでなく若い人たちにも広がってきています。若い人たちは将来を悲観し、やる気を失い、ある者は自ら命を落としてしまっています。連日の自殺のニュースを聞く度に、何とかしないといけないという思いに駆られています。日本は間違っている、変わらなければいけないと言う思いが強くなっています。私たちが暮らすこの静岡県のJR東海道線で3週連続で自殺者が出ています。どうしてしまったのでしょうか。
自殺は若者だけではなくなってきています。お年寄りにも広がってきています。先日も、この後期高齢者医療制度のことで不安になったお年寄りが自殺しました。私は今の日本は非常事態だと思っています。死への恐怖だけでなく、生きることにも恐怖を抱いているからです。

しかし、この聖書に記されているシメオンとアンナに、そうした不安があったでしょうか。いいえ、彼らの心には神を崇める心と感謝の思いがありました。それは彼らが神のみに期待し、神に仕えることを生き甲斐にしていたからです。
当時のイスラエルは決して今の日本よりも良かったとは言えません。むしろ、様々な問題と不安を抱え、この世への期待も出来ず、ただ、神が遣わしてくださると約束された救い主を期待するのみでした。シメオンとアンナはこの主の約束に期待し、そして神に仕えることを生き甲斐にしていたのです。
私たちもこのシメオンやアンナのように、神のみに期待し、神に仕えることを生き甲斐にしながら年老いていきたいものです。神に期待する生き方、神に仕える生き方はだれも奪うことは出来ないからです。豊かさも貧しさも、それを奪うことは出来ません。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないからです。

私たちが彼らと同じ生き方をするとき、シメオンが言ったように、どんなときにも、「あなたは私を安らかに去らせてくださいます」と言えるようになるのです。つまり、生きることも死ぬことももはや私たちの恐怖にはなりえないと言うことです。死に打ち勝ちよみがえられた主イエス・キリストは、私たちに死への勝利をもたらすことが出来るからです。

旧約聖書イザヤ書40章26−31節を読みましょう。

[40:26] 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
[40:27] ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
[40:28] あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
[40:29] 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
[40:30] 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
[40:31] しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。


今、多くの老人たちが、「自分たちは見捨てられた」「早く死ねと言われている」と感じています。また、若者たちは、「生きる甲斐がない」「生きることが怖い」と言っています。
しかし、主を待ち望む者、主に期待していく者には、主自らが力を与えられると聖書は約束しています。
ですから、私たちは、この人として生まれ、人として死なれ、そしてよみがえってくださった、唯一まことの神であり、救い主である主イエス・キリストに信頼し、期待し、お仕えしていきましょう。

2008年4月20日
ルカの福音書 2章1節〜20節

[2:1]そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
[2:2]これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
[2:3]それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
[2:4]ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
[2:5]身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
[2:6]ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
[2:7]男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
[2:8]さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
[2:9]すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
[2:10]御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
[2:11]きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
[2:12]あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
[2:13]すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
[2:14]「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
[2:15]御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
[2:16]そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
[2:17]それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
[2:18]それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
[2:19]しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
[2:20]羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


クリスマスではないこの時期に、この箇所からお話をするのは、なんとなく季節はずれのようですが、実はキリストの本当の誕生日はこの時期ではないかと言われています。
まず、12月25日は間違いなくキリストの誕生日ではありません。もともとそれはローマ帝国における冬至で、12月25日は太陽を祭る習慣があって、キリスト教がローマで盛んになることによって、キリストの誕生日として祝われるようになりました。
ですから、12月25日は異教の祭りであったことから、教会やクリスチャンの中には、別の日をクリスマスにしようという声があがっています。特に商業ベースになった今のクリスマスとは一線を引いていきたいという思いが強くなってきています。
クリスマスは伝道にとって大きなチャンスです。それを生かすという考えもありますが、私たちはだからと言って単純に受け入れていくのではなく、今の12月25日のクリスマスには様々な問題点があることを考慮に入れていくことが必要でしょう。
では、いつが本当のキリストの誕生かというと、定かではありませんが、羊飼いが野原で夜番をしていたというルカの福音書の記録や、天文学的な計算によって、4月中頃ではないかと言われています。

さて、キリストの誕生が単なる物語としてではなく、歴史の中で起こった事実であることを私たちは聖書から知ることが出来ます。
「昔々あるところに・・・」と始まるのではなく、ルカは当時の統治者たちの名前や立場を記すことによって、後の時代の人がキリストの誕生を歴史の中の事実として確認できるようしてくれました。

ローマ皇帝というとカイザルという称号が有名ですが、実際のカイザルは皇帝ではなく、アウグストが初代皇帝です。彼はローマ皇帝の中で最も有名で、最も優れた人物でした。
アウグストが皇帝になる前のローマ帝国は、幾つかの不安要素を抱えていました。それを取り除き、ローマに平和をもたらしたのがアウグストでした。ですから、アウグストはとても大きな権力を持つと同時に、ローマの人々からは、救世主とか神と呼ばれ、彼の誕生を「良い知らせ」すなわち「福音」の始まりとも言われていました。
ローマ10章9節に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し」とありますが、「主」というのはギリシャの語でキュリオスといい、それはアウグストやその後の皇帝に使われる特別な称号でもありました。ですから、そうした時代に、イエスを主(キュリオス)と告白することは今以上に大変だったお思います。
そのアウグストは、ローマが支配する国々の人々の住民登録を命じました。目的は税金徴収と徴兵のためでした。そして、そのためにすべての住民が出身地へ戻らなければなりませんでした。すごい権力だと思います。
もし今の日本で同じ事を行おうとしたら、相当の反発が国民から起こるでしょう。特に子供を抱える母親や、妊娠中の婦人たちからは抗議の声があがり、福田総理の支持率は今以上に下がるでしょう。
そのようなことを行えるアウグストの権威と権力は絶大でした。身重であったマリヤも例外ではありませんでした。夫ヨセフと共に120キロにも及ぶ道のりを旅しなければなりませんでした。120キロというのは掛川から名古屋の距離です。高速を使えば車で1時間半から2時間の道のりです。しかし、当時は乗り物はなく徒歩かロバに乗っての旅でした。少なくても歩き通しで3日は要したと思います。
しかし、この強硬なアウグストの命令が、神のご計画を成就させるのです。いや、正確には人々から神と呼ばれるアウグストの心をも支配される、本当の神がおられ、その本当の神にとってはアウグストも単なる人間に過ぎないと言うことです。

今の時代、人々は自分の権利を強く主張します。自分の思い通りにならなかったり、少しでも自分の権利が侵されると、大きな声を張り上げて抗議します。
しかし、私たちはその前に、静まって神に祈り、神の御心に耳を傾ける必要があります。もしかしたらそこに神の導きがあるかもしれないからです。
先週、私たちは聖霊について学びました。聖霊に満たされると言うことについて学びました。
使徒パウロたちは多くの国々や町々へ伝道に行きました。しかし、しばしば彼らが行こうとしたところに行かないようにと聖霊が止め、別の町へと彼らを導きました。彼らはそのとき自分たちの計画や主張を押し通しませんでした
私たちが自分の権利を主張するとき、また自分の願いや考えを主張するとき、もしかしたら、そうした聖霊の細き御声を聞き逃すかもしれません。
ベツレヘムまでの道のりはヨセフとマリヤには大きな試練であったでしょう。それだけではありませんでした。今にも生まれそうなマリヤには出産できる宿もなかったのです。しかし、そうした試練の中で神の御心がなされていきました。
試練は辛いものです。出来ることならば苦しいことは自分のところに来てほしくないと思います。しかし、私たちは試練の時にこそ、その試練の意味を神に尋ね求めるべきでしょう。そのことを通して、私たちは強くされていくのです。
1ペテロ1章6−7節に、「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」と書かれています。
私たちの信仰は試練によって更に磨かれ、精錬されていくのです。

こうして、試練の中で出産を迎え、子供が与えられたヨセフとマリヤ、そしてその誕生を祝うために神が送られたのが、野原で夜番をしていた羊飼いたちでした。
天使が彼らに現れ、救い主の誕生を告げました。ルカ2章10−12節をご覧ください。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
ローマ人々が皇帝アウグストの誕生を、「良い知らせ」「福音」だと語る中で、ユダヤの小さな田舎町ベツレヘムで、本当の喜び、神がご計画された「良い知らせ」「福音」の訪れが告げられたのです。

ベツレヘムでのキリストの誕生は、旧約聖書の中で神が約束されたことでした。
ミカ書5:2をお開きください。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

神が約束され、人類に与えられた救い主は、ローマで生まれた一人の人物ではありませんでした。
また、神は約束された人類の救い主は、アメリカからは生まれません。日本からも生まれません。中国からもロシアからも生まれません。
救い主はヒラリーでもオバマでもマケインでもプーチンでもなく、福田でも小澤でも小泉でもありません。
私たちは誰かがこの世界を変えてくれないかと期待します。もっと景気を良くし、生活を良くしてくれる総理大臣や大統領が登場しないかと期待します。
しかし、神が人類に与えられた救い主はベツレヘムで生まれられた方だけです。それが昔からの、永遠の昔からの神が定めた定めだからです。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえも(イザヤ53:2)ありません。
宮殿に生まれ戦争に勝つことが救い主の姿ではありません。
見ばえのしない、布と飼葉おけだけが救い主のしるしなのです。

あなたは自分の救いのためにどこに目を向けますか?
政治の中にあなたの救いを見つけようとしますか?
あなたの仕事の中にあなたの救いを見つけようとしますか?
見ばえの良い、豪華な暮らしの中に見つけようとしていますか?
それともお金の中にあなたの救いを見つけようとしますか?

もし、あなたがそれらの中にあなたの救いを探していたとしたら、あなたは救いを見出すことは出来ないでしょう。なぜなら、あなたの救いはベツレヘムの飼い葉桶の中にあるからです。
あなたの救いは、あの十字架で、見とれる姿もなく、輝きもなく、慕うような見ばえもなく血を流された方にあるのです。
あなたの期待の目はどこに向いていますか?
私たちはベツレヘムでお生まれになり、布にくるまれ飼い葉桶に寝かされている方に目を留めていきましょう。その方こそ救い主であり、主であり、キリストだからです。
イエス・キリストだけが神に約束され、あなたのために、あなたの罪のために身代わりに死んでくださりよみがえられた方なのです。

2008年4月13日
ルカの福音書 1章67節

[67]さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

今日の説教のテーマは、「聖霊に満たされる」です。

聖霊とは英語でthe Holy Spiritとかthe Spirit、またはthe Holy Ghostと呼ばれています。
“スピリット”というと、日本語では、霊、たましい、霊魂、精霊、精神、気分、気迫、気力、心などという意味があります。
そして、最近のスピリチュアル・ブームを受けて、この“スピリット”を占いや魔術的なものと受け止めてしまう傾向があります。

スピリチュアル・ブームの前にハリーポッターというファンタジー物語が人気を呼び、今でもその人気は衰えません。
私たちはこのファンタジー物語を、単なる子供向けのお話と受け止めていますが、しかし、そこには魔法や魔術と言ったものが多く登場し、いつの間にか子供たちの心に、占いや魔術への抵抗をなくしてしまう危険性があります。
テレビや新聞、雑誌では必ずと言って良いほど占いが掲載されています。それがないと売れないからです。日本の占いブームは非常に深刻です。

キリスト教系ファンタジーでは、ナルニア国物語が有名です。この作品は今から50年ほど前にクリスチャン作家のC.S.ルイスが書いたもので、その下地には聖書があります。子供たちにキリストのこと、神のご計画を分かりやすく紹介するつもりで書かれたと思います。しかし、それも今のファンタジー・ブームに乗って映画化され、魔法や魔術を正当化する道具とされています。残念なことです。

ハリー・ポッターについては、アメリカではクリスチャンによる不買運動などが起こりました。しかし、ハリー・ポッターだけでなく、ナルニア国物語も、それ以外のファンタジー物にも、私たちは注意を払っていかなければいけないと思います。なぜなら、それは“スピリット”やスピリチュアルといった言葉の理解を間違った方向へ導き、聖霊の理解を誤らせるからです。

さて、もともと“スピリット”とかスピリチュアルとは、キリスト教の言葉として生まれ発展してきました。
“スピリット”は、人間の呼吸を意味する言葉から生まれたそうです。
“スピリット”または霊と呼ばれる言葉は、ヘブル語で「ルアハ」という言葉で表されています。
ルアハは、風、息、いのちといった意味を併せ持った言葉で、それはとても活動的で、力強さを持った言葉です。出エジプト記で海を二つに裂いた強い風の「風」とい言葉に、「ルアハ」という言葉が使われています。
その言葉には、現在使われている占いや魔術などオカルト的な意味合いはなく、それはむしろ人間の内面的な要素、つまり、愛とか憐れみとか清さとか公平さという性格を持ったものを表しています。

創世記2章7節に、「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とありますが、この言葉は、私たち人間は神によって命が与えられていることを教える言葉です。
神を忘れてしまった今の人たちにとって、神が自分を生かしてくださっているという実感を持つことが少ないと思います。しかし、聖書は私たちに、神が私たちに命を与えられたと教えます。そして、その神が私たちに吹き込んでくださった命または霊とは、単なる息をするだけの生き物ではなく、生きる力を持った生き物としてであり、それは愛と憐れみ、清さと公平さを持った者としてでした。

その「ルアハ(スピリット、神の命、神の力)」を神は私たちに与えてくださいました。

旧約聖書からいくつか言葉を開きたいと思います。

伝道者の書12:7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」

イザヤ42:5「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。 」

ゼカリヤ12:1「宣告。イスラエルについての主のことば。・・天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、主の御告げ。・・」


これらの言葉から分かることは、霊=“スピリット”は霊である神から与えられたものであることが分かります。
そしてそれは、神のご性質であり、それにより本来の人間は、愛があり憐れみ深く、聖く、正しく、真実、公平という豊かさを持っていたのです。
しかし、罪を犯した人類はそうした神の性質を失い、様々な問題を抱えるようになりました。
そして、スピリチュアルという言葉は、神の性質を失った人間が、本来の姿を取り戻すという意味で使われるようになりました。

ですから、スピリチュアルとは、今の日本でブームになっているスピリチュアルとはかけ離れたものです。また、そのスピリチュアルの元になった“スピリット”も、幽霊とか霊魂とか魔術などといったオカルト的なものではありません。それは、神から与えられた神の霊のことであり、それは本来、人が持っていたはずの本当の命、人の本当に豊かさのことなのです。
どうか皆さん、世の中の流れやブームに惑わされないでください。また、世の中が提供するもの、今日の話題で言えば、ファンタージー、占い、オカルト、スピリチュアルと呼ばれているものには充分に注意を払っていただきたいと思います。そして、それらに関心を持つのではなく、正しい神の言葉に耳を傾けていただきたいと願います。


さて、今日のテーマである「聖霊に満たされる」とはどのようなことなのかを学んでいきたいと思いますが、まず聖霊についてお話ししたいと思います。

@まず、導入のところでお話ししたとおり、聖霊は幽霊や霊魂のことではありません。
Aまた、神の力や神のエネルギーでもありません。
ある人は、聖霊に満たされると神のパワーがみなぎり、それまではできなかったことができるようになると思い、そうしたパワーが与えられるように熱心に祈ります。しかし、聖霊は単なる神の力、神のエネルギーではありません。
B聖霊は人格のある方で、実在するお方です。
聖書の中に、どのように聖霊が紹介されているかを見るとそれが分かります。
たとえば、使徒の働きの中で、アナニヤという人物が罪を犯したときに、「聖霊を欺いた」と言っています。「欺く」とは、「言葉巧みにうそを言って、相手に本当だと思わせる。」事ですので、もし聖霊が単なる力やエネルギーのようなものであれば、わざわざ嘘を言ってだます必要はありません。
そのほかにも、聖霊が「悲しむ」「知る」「分け与える」「働かれる」「語られる」「あかしされる」「教えられる」「生まれ変わらす」という人格をもって働かれる方であることを紹介しています。そして「もう一人の助け主」と呼んでいる以上、もはやそれを否定することは出来ません。
Cそして、聖霊は唯一まことの神です。
三位一体という言葉をどこかで聞かれたと思います。三位一体とは、神は唯一、ただお一人であるけれど、それは父なる神、子なる神、聖霊なる神という区別された人格を持ち、かつ分離されることなく調和のある存在を説明する言葉です。今日はこの三位一体については詳しく取り上げませんが、聖霊はその三位一体の一つです。

この聖霊に満たされて、ザカリヤは語り、そしてその言葉は預言となりました。
預言というのは、先のことを見通すことではなく、神の言葉を預かるということです。
先週お話ししたとおり、当時の人々がこの世界で王となる救い主を期待していた中で、ザカリヤは罪からの救い主を語りました。そうした神のご計画をザカリヤが理解することが出来たのは、彼が神と神の言葉に従ったことにより、聖霊に満たされていったからです。

「聖霊に満たされる」という言葉は、ルカがおもに用いた言葉です。ルカの福音書に4回、同じルカが書いた使徒の働きには7回使用されています。そのほかのところには、「御霊に満たされなさい」という言葉でパウロが書いたエペソ人への手紙に1回だけ出てきます。このように、「聖霊に満たされ」とはルカが用いた言葉です。

「満たされる」と聞くと、私たちは外側から注がれて満タンになるというイメージを持ちます。
4月に入り、ガソリンが値下がり、少しは安心してガソリンを満タンに出来るようになりましたが、このような外部から注がれていっぱいになるものだと想像してしまいます。
ですから、「聖霊に満たされる」というと、外からの力、外からの影響力によって、自分自身が変化させられた状態だと思ってしまいます。
ある人たちが、天からの力、天からのエネルギーを受けようと手をあげ、また広げて祈る姿を見ます。
手をあげて祈る、腕を広げて祈ることは決して間違ったことではありません。それは神を称え、神に自分自身を委ねることを意味しています。しかし、もし何か力を注がれるとか、エネルギーを受信すると思っているとしたら、それは間違えです。

聖霊はキリストを信じるクリスチャンの中に住んでいてくださると聖書は教えています。
ですから、聖霊は私たちの内に働かれるのです。そしてそれは、私たちの神に従おうとする心の中で働かれ、聖霊が充満するのです。
神に従順であろうという思いがなく、簡単に自分を変える天からの力をいただこうとしてもそれは間違えです。

そして、聖霊に満たされるとは、特別な霊的体験ではありません。それは、キリストに従う生活がもたらすごく自然の結果です。神のみこころに従って生活している敬虔な人々が持つ、当たり前の経験なのです。
それは、何か容器(入れ物)に注ぎ込まれるものではなく、私たちが神に支配権をお委ねするときに表れることなのです。

聖霊に満たされるとどうなるのでしょうか?
新約聖書のエペソ人への手紙をお開きください。
まず1章13節を見てください。

[1:13] またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
[1:14] 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。


聖霊は私たちに、罪からの救いの確証を与えてくれます。
あなたは、自分が完全に救われているという確信がありますか。
もしあなたが、イエス・キリストを自分のために十字架で死なれ三日目によみがえられた、神からの救い主であり、神ご自身であると信じているならば、あなたは救われています。それなのに、自分の救いに自信がなかったり確信がなかったとしたら、それはあなたが聖書の言葉を信じてはいない不従順な心がもたらしていることです。あなたが聖書の言葉を素直に受け入れるならば、聖霊はあなたに救われているという確かな知識を与えてくれます。

次に1章17〜19節を見ましょう。

[1:17] どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
[1:18] また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
[1:19] また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように


聖霊は私たちに正しい知識と知恵を与えてくださいます。
それによって、私たちは自分の進む正しい生き方を知り、もし間違った方向へ歩んでいたとしたら、その罪と過ちを悟らせてくださり、正してくれます。
私たちは罪の性質を負った人間です。完璧ではありません。ですから、私たちは常に神から自分の道を正していただく必要があります。ですから、聖霊に満たされた人は、「もう自分には罪がない。私は完全だ!」と言って自分を誇る人ではありません。むしろ、常に神の前にへりくだり、罪を素直に認め悔い改めの出来る人です。

次は3章16節です。

[3:16] どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

聖霊は私たちを強くしてくれます。私たちの内側を強くしてくれます。

私たちは多くの場合、自分の力で何とかしようとしてしまいます。神に委ねようとはしません。そうしたとき、私たちは失敗します。過ちを犯します。また、長続きしません。
そうした私たちを、聖霊は内側から私たちを強くし、造りかえてくださるのです。

4章23節にこう書かれています。

[4:23] またあなたがたが心の霊において新しくされ、
[4:24] 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。


ですから、私たちは聖霊に満たされなければなりません。聖霊に満たされた生活を送らなければなりません。

最後に5章18−21節を見ましょう。

[5:18] また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
[5:19] 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
[5:20] いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
[5:21] キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。


聖霊に満たされるとき、私たちの心には神を賛美する思いがあふれてきます。また、自分の自慢話や他人を中傷する言葉、この世的な会話ではなく、主イエス・キリストを賛美し、神の名前をたたえる言葉が出て、共に神である主を称えるようになるのです。

あなたの生活はどうですか?
聖霊に満たされた生活でしょうか?

私は最近、とても忙しい生活をしています。忙しい生活を送ると、ついつい祈りの時間、聖書を読む時間が短くなってしまいます。そしてそのようなときに起こるのが失敗です。失敗は私たちをますます忙しくさせ時間を奪っていきます。どうしてでしょうか。それは自分の力で行おうとするからです。

もし、あなたがもっと多くの時間を必要とするならば、もっと多くの仕事をしたいのであれば、私たちはむしろ神のために、神との交わりのために時間を割くべきです。それが最も失敗がなくロスのない生き方です。

もしあなたが、自分自身の失敗から来る悲しみに心が被われたくないのであれば、聖霊に満たされるべきです。なぜなら、聖霊はあなたに正しい道を教え、その道に歩ませてくださるからです。また、たとえ失敗しても、その失敗からあなたは悔い改めに導かれ、罪を赦し清めてくださる主があなたと共におられることを心に覚えて、神への感謝があふれてきます。

聖霊に満たされましょう。それは特別なことではありません。あなたが神に従順であろうとするとき、ごく自然にもたらされることです。なぜなら、キリストを信じるあなたの中には、すでに聖霊が宿っていてくださるからです。
そのために必要なのが祈りのある生活、聖書を読む生活です。あなたはそのために時間を割いていますか?
私たちはまずそこから始めていきましょう。そして、その神との交わりの中で与えられる神の言葉に従順でありましょう。

2008年4月6日
ルカの福音書 1章67節〜80節

[67]さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。[68]「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、[69]救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。[70]古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。[71]この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。[72]主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、[73]われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、[74]われらを敵の手から救い出し、[75]われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。[76]幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え[77]神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。[78]これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、[79]暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」[80]さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。


この箇所の前に、ザカリヤが生まれてきた子供にヨハネという名前を付けたことが記されています。

妻エリサベツが身ごもる前に、天使ガブリエルから告知をされたザカリヤは、そのことを信じることが出来ず、彼は口がきけなくなってしまいました。
しかし、子供が生まれ、名前を付けるときになって、ザカリヤは天使が告げたとおりの名前を付けたところ、その口が開かれました。つまり、それは彼が信仰を持ってこのことを受け入れた証であったのです。

そして、10ヶ月以上にわたってふさがれていた彼の口は開かれ、聖霊に満たされて語った言葉が、今日の箇所です。

「聖霊に満たされ」という言葉が、聖書の中にはしばしば出てきます。また、「聖霊に満たされなさい」という言葉も出てきます。

「聖霊に満たされる」とはどのようなことなのでしょうか? どうしたら起こるのでしょうか?
そのことについては別に充分な時間を割いて学んでいく必要があるかと思います。聖霊とは何か、聖霊の働きとは何かなどと言うことを詳しく、かつ正確に話していかなければならないと思います。ですから、ここではごく簡単にお話しするだけに留めたいと思います。

まず、最初に、ザカリヤがどのような状態の時に聖霊に満たされたのかと言うことです。
はっきりしていることは、彼は不信仰になったとき彼の口はふさがれ、彼が信仰によって神のご計画を受け入れ、従順になったときに彼の口が開かれ、聖霊に満たされて語ったと言うことです。

聖霊に満たされるためには、不従順であってはいけません。神に従順でなければなりません。
私たちは、聖霊に満たされることを望む前に、自分自身の不従順さを悔い改めて、神の前に従順であるかどうかを問わなければいけません。

次に、聖霊に満たされた人はどうなるのかと言うことです。聖書に出てくる聖霊に満たされた人々は、皆が整えられた神からの言葉を語っています。そして、それは人が聞いて理解できない言葉ではありませんでした。
また、それは単なる礼儀と節度と常識を持っただけ言葉ではなく、聖書の理解と信仰的な言葉のあるものでありました。

しばしば、教会では様々な事柄を常識を持って語られたり決められたりします。たとえば、毎年行われる教会の年次総会などは、会社やPTAなどの総会と同じようなやり方でとても事務的な常識に乗っ取って行われがちですが、私たちはそれに信仰をプラスし、聖霊の導きをいただいていかなければなりません。

私たちはこの世の中の常識というものを大切にしようとします。しかし、それはしばしば信仰もなければ神も存在しない人間だけの社会で築かれてきた常識もあります。ですから、私たちは常識ばかりに囚われて信仰的に歩むこと進むこと止めてしまってはいけません。
この教会に出席されている皆さんは、とても常識のある方々です。社会においても尊敬されている方々で、しっかりと社会的な責任を果たされている方々です。牧師である私自身、皆さんから教えられることが多くあります。しかし、どうかそれだけでなく、聖霊に満たされた生活を送っていただきたいと願っています。

聖書は私たちに、「聖霊に満たされなさい」と教えています。
聖霊に満たされるために必要なのは、私たちが神の御言葉に従順であることです。また、この世の中の人々にどう気に入られるかと言うことを考えることではなく、神の御心にかなうことは何かと言うことに心を尽くすことです。

エリザベツが子供の名前をヨハネにしようとしたとき、親戚は「そのような名前は親族にはいない」と言って反対しました。しかし、ザカリヤは親戚の声に従うのではなく、神の言葉に従いました。そこにザカリヤの信仰が見られます。そしてそこに聖霊の満たしがあったのです。

そしてその時に彼が語った言葉が、今日、私たちが学ぶところです。

ザカリヤは、68節で「主はその民を顧みて、贖いをなし」と語っています。この“顧み”と“贖い”とは具体的にどのようなことなのでしょうか。ザカリヤは71節でこのように言っています。

この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

ここで言う“敵”とは誰のことでしょうか?
ヘロデのことでしょうか? ローマ皇帝のことでしょうか?

話が前後しますが、70節には古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。とあるように、イスラエルの人々は昔から救い主を期待し、特にザカリヤの時代にはその期待が高まり、救い主の到来を待ちわびていました。しかし、人々が求めていた救い主と、神がお送りになろうとしていた救い主との間には、大きなギャップがありました。人々はローマの圧制から解放する者としての救い主、キリストを待ち望んでいたのです。それに対し、聖霊に満たされて語ったザカリヤの預言の言葉は、罪からの救い主としてのキリストでした。77節を見ましょう。

[77]神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

聖書は一貫して私たちの内に潜む“罪”の存在を語っています。それは罪は様々な形で覆い隠されているからです。
たとえば、私たちには多くの罪があります。しかし、私たちはそれらを表面に表そうとはしません。心の中には煮えくりかえる憎しみが充満しているのに、顔は穏やかで柔和な者であるかのような表情を浮かべます。
また、私たちは自分自身に非があるにもかかわらず、他人を悪者にしてしまおうとしたり、嘘をついて自分をかばおうとしたりします。

食品偽装・食品の安全が話題にあがる昨今ですが、どうして偽装が起こるのかというと、その商品には表に出すと問題が発生することが含まれているからです。
また、もう一つ、偽装が生まれる理由があります。それは、そこに罰則があるからです。
罰則がない方が良いというのではありません。人は罰を恐れて隠してしまうと言う罪の性質を持っているということです。

中国から輸入された餃子に毒物が混入されていた事件は、まだ新しい事柄です。
しかし、結局はニュースでも取り上げられなくなり、人々の記憶から消えるのを待っているかのようですが、この問題を解決するために必要なのは、日本側も、中国側も自分たちの非や問題点を認め、お互いが協力し合って改善していくことだと思います。しかし、どちらかが非を認めれば非を認めた側に損害賠償が生じる時代です。双方はそれを恐れて責任のなすりつけ合いをしています。

消費者にとって必要なのは損害賠償の責任をどちらが負うかではなく、食の安全であり、そのために時間、労力、お金が使われる方が有益なことです。しかし、損害賠償を求めるようになっている赦しのない今の時代は、過ちを認めることが出来なくなっています。

私はこの時代、つまり損害賠償を求めるようになってしまった今の時代に疑問を感じています。会社だけでなく個人もすぐに賠償責任を問うようになっています。故に産婦人科医をはじめ医師不足が生じてしまい、社会が機能しなくなっていると思います。

ですから、私はもっと赦し合える社会が出来たらいいと願っています。単なる理想に過ぎないかもしれませんが・・・。
しかし、もし私たちの社会に罪を告白したときに、それを赦し、一緒になってその問題を解決していこうとする力があれば、社会はもっと変わることが出来るでしょう。そのために必要なのが深く濃い人間関係なのですが、残念ながら今の日本はその人間関係が非常に薄くなっています。大人は仕事で忙しくなり、子供は塾や部活などの習い事で忙しくなっています。

さて、話が逸れてしまいましたが、そのように罪は私たちに様々な問題を引き起こします。そして、ついには私たちを死とさばきに合わせるのです。

皆さんはどうして人は死ぬのか知っていますか。体の機能が古くなるから死ぬのでしょうか。いいえ、人が死ぬのは罪を犯したからだと聖書は教えます。そして、人は死後にさばきを受けなければならないことも教えています。

それなのに、罪は私たちのうちに罪が潜んでいること、それが私たちに死とさばきをもたらすと言うことを隠し続けるのです。
それは、永遠のさばきに定められたサタンとか悪魔と呼ばれる存在が、私たちを同じ永遠のさばきに連れ込もうとしているからです。

聖書は罪の問題を明確に語り、自分にも相手にも罪があることを教え、互いに愛し合うこと、互いに赦し合うことを教えています。

私たちは本当の敵を見誤ってはいけません。私たちの本当の敵は、罪であり、死であり、そして自分の存在と私たちの罪を隠そうとしているサタンと呼ばれる悪魔なのです。

また79節を見ると、「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」とあります。
罪の問題の解決がない状態は、暗黒と死の陰にすわる者なのです。ですから、私たち教会は、世の中の人たちに対して、神の愛だけを語るのではなく、人の中にある罪を示すメッセージを持って、暗黒と死の陰にすわる人々に福音の光を照らしていかなければなりません。

そうした罪の問題、悪魔の企てに対し、神が私たちに行ってくださったのが、68節で言われている、主の顧みてと主の贖いでした。

日本語の「顧み」とは、心にとどめこと、気にかけることという意味ですが、ここで使われている言葉は「訪ねる」「訪問する」という意味を持ちます。それは、医学用語でいう「往診する」という意味を持った言葉だとも言われています。病気になり、自分の力ではどうすることもできない者に、医者であられる主ご自身が訪れてくださるのです。つまり、主は罪人である私たちを気に留め、主の側から訪ねてくださったと理解できると思います。

次に「贖い」ですが、「価をもって以前の所有物を買い戻す」とか「犠牲を払って取り戻す」という意味があります。

69節の「救いの角」の角とは力を意味する言葉で、神の救いの力強さを表す表現です。

詩篇49:8に「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」とありますが、人間にとって永久にあきらめなければならない罪の贖い、罪からの救い、罪の起こす問題からの解決を、神は強い力を持って買い戻してくださる、贖ってくださる、救ってくださる、解決してくださるのです。

どのような方法によってでしょうか。それはイエス・キリストの流された血潮と捧げられた命によってです。

そしてそのような神の愛はどこから出ているのでしょうか?78節をご覧ください。

[78]これはわれらの神の深いあわれみによる。

この「これはわれらの神の深いあわれみによる」のあわれみとは、はらわた、つまり内蔵を表す言葉から生まれました。私たちが人の痛みに触れたときに、心が痛む、胃が痛む状態と同じ状態が、「神の深い憐れみ」なのです。そのような親が子供を思う愛に似た愛を、それ以上の愛をもって、神はイエス・キリストを私たちの贖いのための代価として捧げてくださったのです。

さて、主は黙示録の中でこのように私たちを招いてくださったいます。黙示録3章20節をご覧ください。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

主は罪深い私たち、自ら罪を犯して神から離れてしまった私たちを、神自らが顧み、訪れてくださいました。本来は私たちの方が神を訪ね許しを請わなければならないのに、私たちの頑なさはそれを許さず、神の方に向こうとはしませんでした。しかし、そのような私たちに神の側が訪れてくださったのです。それが神の顧みです。

今、主は、あなたの元を訪れ、あなたの心の戸をたたかれます。私たちは今、その主の声を聞いて、重く閉じた心のとびらを開けていきましょう。そうするとき、主があなたのところに入ってくださり、罪に汚れたあなたをきよめ、罪に打ち勝つ力をくださいます。罪に打ち勝つ力らとは何ですか。それはあなたが罪を告白すると同時に、人に罪を赦す頃が出来る力です。その力によって、あなたはあなたの敵に対して勝利を得ることが出来るのです。