愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
ここで掲載されています収録説教は公開用に編集されたものです。

このページは2008年3月分です。
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2008年3月30日 ゲストスピーカーのためこの週の分はメンバーページのみ掲載させていただ
いています。

2008年3月23日
ルカの福音書 1章39節〜56節

皆さん、カレンダーをご覧いただきたいと思います。
週末というといつのことになるのでしょうか?
国語辞典による。「一週間の終わりころ。金・土曜から日曜日にかけてのころ。ウィークエンド。」と記されています。さて、日曜日はウィークエンドでしょうか? いいえ、カレンダーは一番先頭に日曜日が来ています。そうです。日曜日は週末ではなく、週の初めなのです。仕事中心で生きている日本人にとって、月曜日を一週間の始まりとしたいところですがそうではありません。
一週間が七日というのは、聖書の中で神がすべてのものをお造りになって七日目に休まれたとあるからです。その第七日目というのが土曜日にあたり、ユダヤ教ではこの日が礼拝を捧げる日、つまり安息日となっています。
この安息日の前の日、金曜日ですが、この日にイエス・キリストは十字架に張り付けにされ、死んで墓に葬られました。その金曜日を含め土曜日の安息日を挟んで三日目が今の日曜日にあたり、この日にイエス・キリストは復活されました。
当時は土曜日の安息日に、ユダヤ教と同じようにクリスチャンたちも共に集まって礼拝を捧げていました。しかし、ユダヤ人以外の異邦人の世界に福音が広がっていったときに、ユダヤ教と区別するために、イエス・キリストが復活された日曜日に礼拝が行われるようになっていったと言われています。

正しい安息日は土曜日なのか日曜日なのかという論争は、2000年経った今でも行われています。ただ、一つはっきりしていることは、イエス・キリストの到来前は、律法を守ることによってのみ人は神に受け入れられるのだとされ、安息日を守ることも律法の一つでしたが、イエス・キリストによって、神の恵みによって人は神に受け入れられようになりました。ですから、安息日をいつ守るべきかどうかではなく、まず、神を信じているかどうか、イエス・キリストを救い主として信じているかどうか、信仰を持って礼拝をしているかどうかが重要となっています。

さて、今日はそのイエス・キリストが復活されたことを記念する復活祭=イースターです。この復活祭はクリスマスと違い、毎年日付が変わります。それは、今の暦(カレンダー)が太陽の動きを元に決められた太陽暦なのですが、復活祭は月の満ち欠けで決められる太陰暦で計算されているからです。
日付のことはその程度にして、イエス・キリストの復活は、私たち人類にとって最も大きく、最も重い意味を持つことです。ですから、2000年前のことだからとか、復活なんて考えられないといって無関心になってしまうのではなく、ぜひ、イエス・キリストの復活とあなたとの関わりを知っていただきたいと思います。
それでは、今日の聖書箇所から共に学んでいきたいと思います。
今朝はルカの福音書1章39−56節をお読みいたします。この箇所は復活の記事ではなく、キリストの誕生の記録のため、今日の復活祭にふさわしい箇所とは言えませんが、まずはこの箇所をお読みして始めていきましょう。

[1:39]そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。[1:40]そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。[1:41]エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。[1:42]そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。[1:43]私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。[1:44]ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。[1:45]主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
[1:46]マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、[1:47]わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 [1:48]主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。[1:49]力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、[1:50]そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。 [1:51]主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、[1:52]権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、[1:53]飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。[1:54]主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。[1:55]私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」[1:56]マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。


ここまでの聖書の内容を振り返っておきたいと思いますが、36節を見ると、マリヤとエリサベツは親類同士であることが分かります。この親類という言葉が「いとこ」と記されている他の訳もあります。
エリサベツはアロンの子孫であると記されています。一方でマリヤはダビデの家系であると記されています。どちらも異なる図形列で、どこが親類なのだろうと疑ってしまいがちですが、これは私の想像と憶測に過ぎませんが、マリヤの母方がエリザベツの親類ではなかったかと思います。
この親類同士がそれぞれ天使ガブリエルの告知を受け、エリサベツは高齢にもかかわらず妊娠し、マリヤは処女であるにもかかわらず妊娠するという特殊な体験をしたのでした。
一見、この二つの出来事は別々のところで行われているようですが、ここにも神の導きの御手を覚えることが出来ます。

マリヤはエリサベツの夫ザカリヤよりもすんなりと天使ガブリエルの告知を受け入れます。私たちはその点でマリヤの信仰を賞賛しますが、彼女の信仰心だけでなく、そこに至るまでの神の準備があったことを知ることが出来ます。
まだ、第一に、マリヤは不妊のエリサベツが、高齢にもかかわらず奇跡によって子供を身ごもったと言うことを知っていました。その奇跡が事前にあったからこそ、マリヤは受け入れやすかったと思います。
次に、結婚前のマリヤが身ごもったことは、当時のイスラエルでは石打の刑にあたる出来事でした。どんなに信仰の強いマリヤであっても、決して一人では乗り越えられる問題ではなかったと思います。そのため、神はマリヤのために事前に理解者を備えていてくださったと思います。同じように奇跡によって身ごもったエリサベツは、マリヤの奇跡も理解できたでしょう。
そして、この二人が親類同士であったと言うことも不思議なことです。つまり、神はこのマリヤとエリサベツが生まれる前から、このことをご計画されていたと言うことです。そうでなければ、この二人が親戚同士になることはなかったのです。
このような神の導きを知るときに、私たちも常に神の守りと導きの中で生かされていると言うことを学びます。

聖書に次のような言葉があります。1コリント2章7〜9節

[2:7]私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。[2:8]この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
[2:9]まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」


時に、私たちは、自分自身に降りかかってくる様々な出来事に戸惑ってしまうことがあります。
私たちは試練に遭うことがあります。その試練は一つだけではなく、二つも三つも重なって訪れることがあります。そのようなとき、私たちは自分を不幸の主人公のように思ってしまったり、神につぶやいてしまったり、自分自身が何か過ちを犯してしまったのだろうかと考えたりします。そして、神はこの試練を通して自分に何らかのメッセージを送っているのだと思いもしません。
しかし、神は不思議なお方です。私たちの想像だにしないことを通して事を行われます。
それは私たちが目にしたことのない方法を通し、耳が聞いたこともない方法を通し、人の心に浮かんだことのない方法を通して行われます。そして、聖書はそれらを、神を愛する者たちのために行ってくださると語ります。

続いて、同じ1コリント2章10〜16節を読みたいと思います。

[2:10]神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。[2:11]いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。[2:12]ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。[2:13]この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。[2:14]生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。[2:15]御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。[2:16]いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

ここに出てくる、「御霊」というのは、ルカの福音書では「聖霊」と呼ばれている、人の目には見えない神の霊のことです。
聖書の一番はじめの創世記には、神は人や動物を土の塵で造られたとあります。しかし、その創世記には人と動物の大きな違いがあることも教えています。その違いは、人にはいのちの息が吹き込まれたことです。この「いのちの息」とは空気のことではなく、いのちの霊(spirit)とも言われています。
聖書は人を単なる肉体だけの生き物としてではなく、たましいや霊を持った存在として教えています。
そうした存在だからこそ、人は目で見ることは出来ない神を求めているのです。
もし人がアメーバーのようなものから進化してできた単なる肉のかたまりでしかなかったとしたら、神を求めたりはしなかったでしょう。

聖書は私たちに、この目には見えない霊である神の知恵を悟ることが出来ると言っています。どのようにしてでしょうか。それは私たちがキリストの心を持つことによってできるのです。

[2:16]いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

キリストの心とはどのようなことでしょうか。それはキリストの視点、神の視点からと言う意味です。
もしマリヤが人間の視点でこのことを捉えていたら、処女が身ごもって男の子を産むという、目にしたことのない、耳が聞いたこともない、人の心に浮かんだことのないこの出来事を受け入れることは出来なかったでしょう。
しかし、神はこのマリヤがこれらを神の視点で捉えることが出来るように、幾つかのことを通して前もって準備をしてくださっていたのです。
私たちもキリストの心、キリストの視点、神の視点で物事を捉えることが出来るようにしていきたいと思います。
そうするとき、私たちは、自分自身に降りかかってくる様々な出来事に神のご計画があることを知り、また、神の導きと守りがあることを知ることが出来るのです。

さて、ルカの福音書に戻りましょう。1章51〜53節をご覧ください。
マリヤは聖霊に満たされて次にように歌いました。

[1:51]主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、[1:52]権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、[1:53]飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

これらの言葉は過去形で書かれていますが、将来を表す信仰的、預言的な表現です。マリヤはこれらか起こる事柄を神に期待しつつ、この歌を歌ったのでしょう。私たちも神の視点に立つとき、これから起こると期待することを、すでに得たかのように確信することが出来ます。

さて、神はどのような力強いわざをなしてくださったのでしょうか。
どのようにして、心の思いの高ぶっている者を追い散らされたのでしょうか。
それは復活という奇跡を通して行ってくださいました。

当時の権力者たちは、イエスを殺しさえすれば、自分たちの批判はなくなり、イエスになびいていった人々の心も自分たちの方へ取り戻すことが出来ると考えました。
悪魔も同じでした。神が人類の救い主として遣わしたイエスを亡き者にすれば、神の計画は破綻すると考えたのです。
そして、それらの企て通り、イエス・キリストは十字架で殺され、墓に葬られました。
しかし、神の奇跡は、人がもうダメだと思ったところから始まります。イエス・キリストを信じてついてきた弟子たちもあきらめ落胆していたとき、その奇跡が起こりました。
そうです、イエス・キリストが復活されたのです。

聖書は、イエス・キリストの復活を事実として伝えています。私たちクリスチャンもキリストの復活は実際にあったと信じています。使徒パウロは、もしキリストの復活が嘘だったら、それを信じている私たちクリスチャンは世界中で一番哀れな者だとも言っています。
人が復活すると言うことは信じられないことです。しかし、人を造られ、人にいのちの息を吹き込まれた神にはそれが可能です。
また、旧約聖書は、救い主は処女から生まれること、救い主は人類の罪のために身代わりに罰を受けられること、そして、救い主は死よりよみがえることをが条件として約束されていました。ですから、復活は信じられないことではなく、なければいけないことだったのです。
だれが、キリストの十字架の死によって、人々の罪が取り除かれると予想したでしょうか。だれが、死人がよみがえると予想したでしょうか。
まさに神は、私たちが目にしたことのない方法を通し、耳が聞いたこともない方法を通し、人の心に浮かんだことのない方法を通して、私たち人類が罪から救われる道を達成してくださったのです。

さて、今日はお話の中でキリストのこころ、神の視点ということをお伝えしました。
神の視点はどこにあるのでしょうか。それは私たちの頭のずーっと上の天国にあるのでしょうか。
神は私たちを高い天から見下ろしておられるのでしょうか。
いいえ、神の視点とはとても低いところにあります。高ぶった人には決して見えない低いところにあります。キリストの心、神の視点は、マリヤのように、「この卑しいはしため」と言ってへりくだり、神の前にひざまずく者だけが見ることができるのです。
ですから、あなたも神の前にへりくだり、自分を罪や過ちを犯した罪人として認め、膝をかがめて、神があなたのために遣わしてくださったイエス・キリストを信じ受け入れてください。そのとき、あなたは神の御心が分かり、神の導き、神の守りに気が付くことが出来るのです。

2008年3月16日
ルカの福音書 1章26節〜38節

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

先週は、エルサレムの神殿でバプテスマのヨハネの父ザカリヤが天使ガブリエルから子供が与えれるお告げを受けた箇所からお話ししました。
今週は場所を神殿のあったエルサレムから北へ100キロ離れたナザレへと移ります。100キロという距離はここ掛川から富士山のまでの距離くらいです。
そこはガリラヤと呼ばれる地域にありました。ガリラヤはエルサレムのあったユダヤ地方とは趣を異にし、旧約聖書のイザヤ書で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているように、他国人との接触の多い地域で、また当時はギリシャ文化の影響も受けた地域でした。

そのナザレにマリヤという女性が住んでいました。いいなずけのヨセフがダビデ王の家系とありますが、マリヤもその家系をたどるとダビデにまで遡ることができ、ダビデとバテシェバの間に生まれたソロモンの子孫がヨセフ、ソロモンの兄弟ナタンの子孫がマリヤになります。
このマリヤに、ザカリヤに現れたと同じ天使ガブリエルが神から遣わされ、マリヤにメッセージを伝えました。
私たち、超自然的なものに興味をそそられ、天使という存在がどのようなものなのかを追求したくなります。もちろん、聖書に基づいて調べることは大切です。しかし、天使は私たちと同じ神によって造られたものの一つで、神に仕える存在ですから、私たちは神以上に興味を持つ必要はありません。また、ガブリエルも神のメッセージを伝えることが仕事ですので、ここから自分自身について語られるよりも、神の恵みについて語ることを望んでいるでしょう。ですから、ここでは簡単な説明で終えたいと思いますが、ガブリエルは、このルカの福音書1章以外に、旧約聖書のダニエル書に登場してきます。その役割は常に神のメッセージを伝える者としての務めです。

そのガブリエルがマリヤに告げたメッセージは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」という内容でした。今朝、私たちはこの天使ガブリエルのメッセージの意味と、マリヤの反応を通して学ぶべきことを聖書の中から見ていきたいと思います。

「おめでとう、恵まれた方。」とガブリエルは告げます。「恵まれた方」というのはどのような人のことを言うのでしょうか。「恵まれた」という言葉は、ほかに、「好意を得た」とか「愛されている」という意味があります。

ダニエル書9:21−23を開きましょう。
すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。

ここでも天使ガブリエルは、ダニエルに対し、「神に愛されている人」と語っています。そして、その神に愛されている人は、「御言葉を聞き分ける人」「幻を悟る人」であるとも語っています。
マリヤは、ダニエル同様、「御言葉を聞き分ける人」「幻を悟る人」であったのでしょう。
事実、マリヤは、ガブリエルが告げた「神にとって不可能なことは一つもありません。」という言葉に、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 と応えています。

マリヤが聞いた神の御心とは、「あなたはみごもって、男の子を産みます。」でした。これがザカリヤやエリサベツのように結婚している夫婦ならば、受け入れられるでしょう。しかし、マリヤは未婚者であり、男の人を知りませんでした。年齢的にも20才以下だったと思われています。そのような若いマリヤが、常識を越えた神の御心を受け入れることは、驚くべきことです。

先週の礼拝で、「主の御心が語られたときに、いつでも応えることが出来る準備が出来ているでしょうか。」と皆さんに問いました。
マリヤは、自分に語られた主の御心に、迅速に応えました。「御言葉を聞き分ける人」というのは、主の言葉をこのように受け止める人のことなのでしょう。
バプテスマのヨハネを身ごもったエリサベツは45節でこう言っています。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

ダニエル書をもう一カ所開きましょう。ダニエル書10:19。
言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

また、ダニエルよりも前の時代に生きた、預言者であり祭司であったサムエルに神が語りかけたとき、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と応えました。
ヤコブ書1:19に、「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」と書かれています。
私たちは、「御言葉を聞き分ける人」になるために、語るにはおそく、聞く耳を持って御言葉に聞く人にならなければいけません。私も説教者として、語ることよりも、御言葉を多く聞く者、多く学ぶ者でありたいと思っています。また、御心が語られたときに、それに迅速に聞き従うことができる者でありたいと願っています。

さて、もう一度ルカの福音書に目を転じましょう。1章31節をご覧ください。「名をイエスとつけなさい。」と言われています。「イエス」と言う名前は、ヘブル語のイェーシューア、または、イェホーシューアで、ユダヤ人の間で一般な名前で、モーセの後継者ヨシュアと同じです。意味は「主は救い」で、ギリシャ語ではイエスースと言います。

マリヤが、聞いて、悟らなければならなかった言葉は、「身ごもります」という言葉だけではありませんでした。32〜33節の・・・
「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
という言葉も受け入れなければなりませんでした。
これらの言葉は、救い主=メシアを表すことであり、王位を表す言葉です。35節には「聖なる者」「神の子」とも呼ばれています。マリヤはこの言葉も受け止めなければなりませんでした。それはただ単に、「私はこの国の王になる子供を産むんだわ」と喜べる単純なものではありませんでした。

聖書の他の箇所でも語られているように、当時は幼子イエスを殺害しようとしたヘロデ大王が統治する時代でした。また、先週の礼拝でお話ししたとおり、大祭司という職を巡り権力争いが起こっていた時代でした。そのような時代に人々は救い主を期待し、その救い主が彼らの王になることを願っていたのですが、それはまさに奇跡でもなければ不可能なことでした。
私たちは連日のように、この国の力を帯びた人々の悪い行為を耳にしています。またお金の力や暴力によって自分たちの主張を押し通そうとする人々がいることも目にします。そのような中で、権力も財力もなく、また暴力を好まない善良な市民は、ただただ今の状況に涙し我慢するしかありません。
悪の力は大きいです。そして抜け目がなく巧みです。そして、まじめな人ほど、彼らの餌食になります。
時々、「この世の中のどこに正義があるのだ!」と叫びたくなります。
しかし、私たちは、そうした悪者たちのたくらみ、悪者たちの知恵をはるかに勝る、本当の神がおられることを信じ、その方に期待していかなければなりません。その奇跡の始まりが、このルカ1章の記事なのです。

私はこのルカの福音書を学ぶにあたり、ルカが綿密に調べたように、時間の許す限り、当時の歴史的や時代的背景を調べようとしています。すると、そこには本当に針に糸を通すかのような、綿密な神のご計画があることが分かり、学ぶ度に心がワクワクしてきます。そして、どんなに強大な権力者が立ちはだかろうとも、歴史は神が支配し動かしておられることを知るのです。

神にとって不可能なことは一つもありません。
私たちもこの言葉を心から信じましょう。そして、ペテロを通して与えられた次の言葉も覚えましょう
1ペテロ3:9−15
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

私たちは諦めず、忍耐し、神にのみ期待して、正しく平和に生きていきましょう。それが神の御心です。そして、そのように生きるとき、神が奇跡を起こしてくださるのです。

最後に2カ所、聖書を開きましょう。
ピリピ2:6−11
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめすべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

もう一カ所、使徒4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

来週は復活祭です。主イエス・キリストは今からおよそ2千年前、私たちのために十字架で死なれ、復活されました。
私たちは、神によって与えられた、このイエス・キリストという名こそ、すべてに勝る名前であり、私たちに罪の赦しと、たましいの救いをもたらす救い主の名前であることを覚えましょう。

2008年3月9日
ルカの福音書 1章5節〜25節

ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」(ルカ1:5−25)

 ここには祭司ザカリヤとその妻エリサベツが登場してきます。この夫婦は後に生まれるバプテスマのヨハネの両親です。当時、この祭司という職は一つの問題を抱えていました。祭司の頂点に立つ人のことを大祭司と呼びますが、この大祭司の職を巡り、時には正当な継承者でない者が大祭司になったり、また権力者と結びいたりしていました。そのため、大祭司が行うべき神と人との仲介者としての役目を失っていました。ルカが、わざわざザカリヤのことを「アビヤの組の者」、彼の妻のことを「アロンの子孫で」と記しているのも、そうした時代を反映して、ザカリヤが正当な祭司としての継承者であることを伝えたかったのかもしれません。

 本来、祭司は、神と人との仲介者として神に仕え、祭の儀式にたずさわることが務めでした。その祭司職の最高位にいる人が大祭司ですが、当時は政治的独立を失ったユダヤ人にとって、精神的な最高指導者であり、外国の支配力に対してユダヤ人側を代表する者でもありました。そのような立場でなければならない大祭司が、自分自身の保身と私腹を肥やすことに心を用いていたのです。ですから、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」 ザカリヤ夫妻はさぞ心を痛めていたことでしょう。

 私たちの教会はバプテスト教会です。バプテスト教会は、政治と宗教が結びついた英国国教会以外の教会を認ようとしないイギリスで誕生したと言われています。その弾圧から逃れてアメリカに渡ったバプテストの人たちが唱えたのが、政治と宗教が結びついてはいけないという政教分離の教理で、それはバプテスト教会の特徴の一つにもなっています。
 私たちは政治に無関心であってはいけません。私たちは、国のため、政治を任されている人たちのために祈るように聖書は教えています。しかし、一方で宗教や教会が政治と結びつくことの危険性を私たちは訴えています。主イエス様もこの世の国と神の国とをはっきりと区別されておられました。

 当時、ユダヤ教の大祭司や祭司長と呼ばれる人々は深く政治に関わり、また、当時の統治者たちは自分たちを指示する人物を大祭司の座に置きました。そのため、大祭司も国民寄りではなく、ローマ皇帝やヘロデという統治者寄りになっていました。また、この時代の大祭司であったアンナスと彼の娘婿カヤパは、自分たちに多くの利益が生まれる様々な制度を作っていったと言われています。たとえば、宮きよめと呼ばれる主イエス様が神殿で商売をする人たちのテーブルをひっくり返されたことで知られる、神殿で行われていた巡礼者向けの商売ですが、これもアンナスとカヤパによるものと言われ、膨大な利益が彼らのもとに流れていました。

 こうした信仰の堕落を心配した庶民の心には、神が旧約聖書の中で約束してくださった救世主=メシア(つまり救い主)の出現を待望する思いが強くなっていきました、また、人が任命した大祭司ではなく、旧約聖書の創世記に登場してくるメルキゼデクという大祭司のような、神が任命された大祭司を待望する思いが強くなっていきました。

 まじめな祭司であったザカリヤはとても苦しんだと思います。宮崎県知事の東国原知事ではないですが、ザカリヤの心の中には「どげんかせんといかん」という思いがあったでしょう。しかし、一介の祭司にはどうしようもできないことでした。彼が出来ることはただ神を信じ、神に祈り、世の中に流されず正しく生きることだけでした。
 しかし、その彼らには子供が与えられていませんでした。
結婚をした夫婦に子供が与えられることは神の祝福と考えられていた時代ですから、祭司でありながら子供が与えられないザカリヤ夫妻は辛い思いをすることが多くあったと思います。

 人はこのような辛い経験をすると、ついつい神を恨んだり、不信仰になりやすいものです。しかしザカリヤ夫妻は人生の試練にあいながらも神に不平を言うことなく、正しく忠実に祭司の務めをしていきました。私たちはこのザカリヤ夫妻の信仰を見習いたいと思います。そして、神はこの忠実な神の僕とその祈りをを忘れてはおられないと言うことを覚えたいと思います。
 ザカリヤはくじに当たり、神殿で香をたくことになりました。主の神殿にはいって香をたくという経験は、祭司が一生に一度だけ経験できるもので、くじに当たらなければ、たとえ祭司であっても経験しないで人生を終えてしまうこともあるものでした。
 神は、この信仰の危機的な時代に、慎ましくはあっても正しく信仰を守り通し、忠実に神に仕えてきたザカリヤに目を留められました。彼にくじが当たったのは偶然ではなく、神が行われたことでした。その彼にガブリエルという天使が現れ、彼ら夫婦の間に子供が与えられること、そして、その子供が神の預言者として人々の信仰を呼び覚ますことを伝えました。
 ところが、ザカリヤはその言葉を信じることが出来なかったのです。不信仰で堕落した時代に長く生きてきたからでしょうか。ザカリヤは天使が現れたことに驚き、その言葉を信じることが出来なかったのです。
 聖書にはしばしば不妊の女性に神が子供をくださるという奇跡が記されています。特に有名なのがアブラハムの妻サラです。彼女は90才にもなっていて子供が与えられます。ザカリヤは当然そのことを知っていました。また神の存在も天使の存在も知っていました。事実、彼はそれらを信じて、子供が与えられるように祈っていました。しかし、実際にそれらが自分の身に起こったとき、彼は驚き信じることが出来なかったのです。
 私たちは彼を責めることは出来ません。きっと私たちも同じような状態になるでしょう。

 では、なぜ私たちは驚き不信仰になるのでしょうか。その問題は、私たちの祈りにあると思います。
私たちは神に祈ります。時には現実的には叶いそうもない奇跡を願ったりもします。たとえば、「末期の癌になってしまった○○さんを癒してください」などと祈ることがあります。しかし、その祈りの言葉のどこかに、「できるものなら」という疑いの思いが隠されていたりします。
 あるとき、主イエス様のもとに一人の父親がやってきます。彼は悪い霊に憑かれた息子を助けてほしいと懇願するのですが、彼は、「ただ、もし、おできになるものなら・・・」と言ってしまったのです。すると、主イエス様は、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 と言われ、その父親はあわてて、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って弁解したのです。
 ヤコブの手紙1章6節にはこう書かれています。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」
 私たちは祈るとき、信仰を持って祈っていかなければなりません。自分自身が祈ったことはそれが実現した時を想定して祈っていかなければなりません。

 さて、話をザカリヤに戻しますが、ザカリヤの信仰は決して完全ではありませんでした。しかし、神は彼のその献身的で謙った心を用いられます。ザカリヤは不信仰によって一時おしになりますが、その後彼は神の命じられたとおりに行動し、生まれた子供の名前をヨハネと名付けたのです。ここに神が彼を選ばれた理由が見られます。
 皆さんの心には、主の御心が語られたときに、いつでも応えることが出来る準備が出来ているでしょうか。極端な話ですが、もしかしたら、今日、あなたは、今からアフリカへ行って福音を伝えなさいという命令を主から受けたらどうしますか。あなたは、「ちょっと待ってください。私には家族や家があります。急にそんなことを言われてもできません。」と言いますか。
 しかし、現実の社会ではそれが当たり前になっています。ある人は家を新築したばかりなのに、急に会社から海外出張の命令が下りました。その人はそれに従うか、別の所に左遷させられるか、会社を辞めるかの選択しかありませんでした。またある人は転勤の5日前に辞令が出て、住んでいるところをたたんで別の所に移らなければなりませんでした。アメリカの兵士たちは全世界に派遣されています。軍事上の作戦は下の兵士たちには明かされません。ですから、今は沖縄に駐留していてもその日の晩にイラクへ派遣させられると言うこともあるのです。
 私たちは会社の無理な命令には従うのに、どうして神の召しには素直にうなずけないのでしょうか?
私たちは常に主の御心に応えられるように、謙遜で柔軟な心を持っていきたいものです。また、祈りも、「できるものなら」ではなく信じて祈っていきたいものです。

 さて、ザカリヤをはじめ当時の人々の祈りは、神が任命された本当の大祭司が与えられること、ローマの皇帝ではなくイスラエルの王が与えられること、人々の心を神に向けるための預言者が現れること、そして、神が約束された救世主=メシアが現れることでした。
 神はそうした人々の祈りに応えてくださり、信仰的に堕落し、暗闇に支配された時代に、本当の大祭司、本当の王、本当の預言者、本当の救い主を遣わしてくださいました。それが、主イエス・キリストです。
 そして、その主イエス・キリストの先駆けとして現れたのが、ザカリヤとエリサベツの間に生まれたバプテスマのヨハネでした。
 私たちはこの世の中でしばしば辛い経験をします。この世の中の理不尽さに悩まされます。しかし、私たちはだからと言って、神を恨んだり、不信仰になってはいけません。
むしろ、悩みながらも忍耐して歩む者に目を留められ、共に歩み、祈りに応えてくださる神がおられることを信じていきましょう。
 そして、主イエス・キリスト様こそ、私たちのために仲介者となってくださる大祭司であり、私たちを正しく導き守ってくださる王、罪からの救い主、まことの神として信じて歩んでいきましょう。

最後に、ヘブル人への手紙を読んで終わります。4章14−16節、24−28節

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14−16)

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。(ヘブル4:24−28)