愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
ここで掲載されています収録説教は公開用に編集されたものです。

このページは2008年5月分です。
前の月 次の月

2008年5月4日
ルカの福音書 2章41節〜52節

2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。


イタリアにACミランというサッカーチームがあります。
今、このチームは若返りを目指そうと新しいチーム・リーダーを必要としています。
その中でブラジル人のカカという選手が注目されています。
世界のサッカーは、今やブラジル人がいなければおもしろさが半減してしまうほど、ブラジル人プレーヤーの活躍が目立ちます。ただ、問題もあるそうです。それは個性の強い選手がチームに加わって来た場合、調和を保つと言うことが難しいということです。
そのような事情の中で、ACミランのカカは選手としても優れ、人格的にも魅力のある選手として尊敬を集めています。その一つの理由は、彼が熱心でまじめなクリスチャンだからです。
サッカー選手として、サッカーの技術を磨くことは非常に大切なことです。しかし、どんなに技術が優れていても、サッカーはチームで行うスポーツなので調和が必要です。ですから、調和をとることができない選手は、チームにとって迷惑となり、戦力を失う原因となってしまいます。
ですから、技術もあり、チームの調和もとれるカカは、「世界の中で自由に選手を獲得できるとしたらカカを選ぶ」と言われています。
そんなカカという選手にクリスチャンとして注目していきたいと思っていますが、このようにチームにとって必要なのは技術だけでなく調和を保つことの出来るモラルも必要です。そして、そのことは私たちの教育にも言えることです。

学力を身に付けると言うことはとても大切なことです。より多くの知識を学び、技術を磨く努力はとても必要なことです。
私たちの暮らすこの日本は、最近、学力が落ちたと言われていますが、それでも高い学力と技術を持っています。ところが、学力以上に落ち込みが目立っているのはモラルです。これまでの日本は技術だけでなくモラルも高く、それが社会の調和を保ち、生産性も上げてきました。しかし、モラルの低下により効率の悪い社会に変わってきています。
たとえば、学校の給食費の問題ですが、支払う能力があるのに支払わない世帯が増えています。家は立派で高級車に乗っているのに、小中学校は義務教育だから給食費を払う必要はないと、訳の分からないことを言って支払いを拒否している人がいます。それによって、学校の先生たちは授業以外に時間を取られることが増えています。
年金等の問題も、国が責任を持ってお金を管理していれば、余分な労力や経費をかけて調査する必要がなかったわけです。ところがモラルがなかったことにより大きな問題となっています。
私は今の日本に一番必要なのは年金や健康保険ではなく、まず第一は福音ですが、その次に必要なことは教育だと思っています。その教育も国語や数学や英語と言った教養ではなく、道徳とか思いやりと言ったことを教育が必要だと思っています。親切や正しい行いにはみんなでそれを評価しほめていき、不正や自分勝手な行いはみんなで取り除いていくという道徳教育が必要だと思っています。
そして、その道徳教育のために必要であり力を発揮するのが教会なのです。残念なのが、日本の社会は教会に目が向いていません。その重要性に気が付いていないと言うことです。皆さんはどうですか?
子供にとって学校教育以上に、教会での教育が大切だと認識しているでしょうか。

さて、目を聖書に向けていきたいと思います。
まず、ルカの福音書2章41〜42をご覧ください。
「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、」とあります。
主イエスの両親は、毎年のようにエルサレムに上っていたようです。
イスラエルには年に三回の大きな祭りがありましたが、過越の祭りはその一つで、今でも大切に守られています。
これらの祭りは、神の命令を守るだけでなく、子供たちの教育の場所でもありました。特にイスラエルでは13才からが成人のため、12才の少年にとっては大人への仲間入りを果たすためにも重要だったと思います。
イスラエルでは幼少の時から、聖書(特にトーラーと呼ばれる律法)が教えられました。それが教育の中心でした。そして13才になると「バル・ミツワ(律法の子)」と呼ばれ、ユダヤ教の律法の教えに習熟し、その教えに責任を持って従って生きる年齢に達した者とされました。つまり、一人前として扱われるようになり、自分の言動には自分で責任を取らなければならなくなります。また、これからは自分の力と意思でエルサレムへの巡礼をするようになります。

ですから、12才というのは両親に連れられて行く最後のエルサレム巡礼だったのではないでしょうか。
そして、その時に起こったハプニングが、2章43節以降の記事であります。
祭りを終えてナザレに戻っていたヨセフとマリヤは、一行の中にイエスがいないことに気が付きます。
一日の道のりを歩いて宿泊しようとした時だったのでしょう。彼らは慌ててエルサレムに戻り、三日後にイエスを見つけました。
気が付いたのが一日の道のりを歩いた後だったと言うことなので、戻るのに丸一日、そして二日間もエルサレム中を探しまわったわけです。ヨセフとマリヤはさぞ心配し、必死だったでしょう。
その様子を物語る言葉として、イエスを見つけたときにマリヤが発した言葉が記されています。
48節をご覧ください。
「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
当然といえば当然でしょう。両親の心配をよそに、当の本人は平気な顔で大人たちを相手に話したり質問したりしていたからです。
ところが、イエスの答えは「ごめんなさい」ではありませんでした。
49節をご覧ください。
「するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。」

自分の父の家とはどこのことなのでしょうか。ナザレにある父ヨセフと暮らす家のことではないようです。イエスの本当の父はエルサレムに住んでいたのでしょうか?
いいえ、ここで言う「父」とは、神のことです。
日本語の聖書では「父の家」とありますが、もとのギリシャ語聖書には「家」という言葉はありません。
直訳すると、「私の父のことの中に」となります。言い替えると、「私は父のものとしてそこにいます。」
つまり、父なる神と一体感を表しているのです。
それは、ほかの聖書の中でも感じることが出来ます。ヨハネの福音書5章17〜23節をご覧ください。

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。
5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。


人としてこの世に生まれ、ヨセフとマリヤの子として育てられた主イエスの本当のお姿は神でした。私たちを罪から救うために神が人となって来てくださり、メシア=キリスト=救い主となってくださったのが主イエスです。父なる神と主イエス・キリストとは常に一つで、常に共に働かれていたのです。ですから、主イエスの「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」という両親への応えは決して不思議なことや疑問を感じることではなく、ごく自然のことでした。

聖書は次のように話します。ヨハネの福音書1章18節。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

どのように神を解き明かされたのでしょうか?同じヨハネの福音書14章7〜9節をご覧ください。

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」

またもう一カ所開きましょう。ヘブル人への手紙1章3節。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」

私たちは目に見ることの出来ない神を見ることは出来ません。しかし、私たちは人間と同じように肉体を持って来られた主イエス・キリストを通して、神を見、神を知ることが出来るのです。ですから、私たちはますますこの主イエス・キリストについて学んでいかなければなりません。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が愛の方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が憐れみ深い方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神が常に私たちの隣にいてくださることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちのために多くの犠牲を払ってくださる方であることが分かります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちのために命をも投げ出してくださる方であることがわかります。
私たちが主イエス・キリストを学ぶとき、神は私たちに命を与えてくださる方であることが分かります。

さて、お話をまとめたいと思います。
私たちには教育は必要です。どんな教育が必要でしょうか。それは神に学ぶという教育です。
できれば、それは幼少のうちより行うことが出来れば幸いでしょう。
子供は年と共に親から自立していきます。その時に、子供が何を基準に自立していくかということはとても大切なことだからです。
また、大人にとっても教育は大切です。掛川は生涯学習の町ですが、私たちは生涯にわたって聖書から学ぶことが大切です。大人になると人は変わり難くなります。自分自身を変えたいと思いつつも何度も挫折します。しかし、水をぶどう酒に変えられる神は、私たちをも造りかえてくださいます。御言葉を通し、神はあなたに力と約束と信仰を与えてくださり、あなたを変えてくださいます。
それはあなた自身だけのことにとどまりません。私たちは人間関係において、多くのトラブルをかかえます。時にはそのために自分だけでなく相手の人が変わってほしいと思うでしょう。また、あの人はいくら言ってもダメだとあきらめてしまうことがあるでしょう。しかし、私たちには出来ないことも神にはできるのです。そのように、神は私たちに希望と期待を与えることが出来るのです。そして何よりも、人を赦すことの出来ない私たちの心に、人を赦しことのできる心を造ってくださるのです。
そのようにして、神は私たちを造りかえてくださり、主イエスが神と人とに愛される方であったように、私たちもそのようにされていくのです。